お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

科野大宮社

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やーっと資格試験の結果きた。春ですよ。実務経験いつ積むか・もう少し関連資格取っておくかで悩み中。どちらが転職するのに楽なのだろうか。

 

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科野大宮社にきた。こちらの御祭神は大己貴命事代主命の二柱と健御名方神も祀られているという、長野によくあるような神社だと思った。

ここは長野県内でも相当古い部類の神社であるそうだ。延喜式以前からあったらしいが、延喜式には載っていないとか書いてあった。「総社」というタイプの神社だとも言われいるとかで。

 

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総社というのは、

  • 国司が任国へ下向してまずやること=任国内の神社を順に参拝していく
  • あちこちの神社を参拝するのが大変
  • 国府の近くに神社建てて、国中の神様合祀すれば楽なのでは?

という理由で創建されたものらしい。国中の神社を巡るとものすごい時間がかかって面倒だから簡略化しよう、ということ。

 

最初の信濃国府が上田市内にあったそうなので、推定「信濃国総社」となっている。その後は松本市国府が移ったので、松本市に新しく信濃国総社を建てたと推定されている(上田市のものはそのまま残されたようだ)。

  

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市街地にあるためか、境内は広くない。ただし幹がぶっとい木が何本かあるよ。

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摂社もなんかいっぱいあった。子安社とか稲荷社とか。

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大きな石碑があり、そこに縁起が書かれているようだ。

「科野大宮の碑」というタイトルで、大勲位彰仁親王という人が題字を書き? 文章は枢密院顧問官正三位勲一等伯副島種臣が書きました。というような感じの仰々しい石碑だった。

彰仁親王小松宮彰仁親王のことで、伏見宮邦家親王の第8王子(親王宣下を受けている)だったが出家→仁和寺の門跡→勅命で還俗する→軍人→活躍したので家格が世襲親王家にランクアップ(もともと一代限りの皇族だったのが永世皇族になった)→軍人としてさらに出世(陸軍中将→陸軍大将→初代近衛師団長→参謀総長征清大総督→元帥)→英国王戴冠式に出席(現英国女王の祖父のエドワード7世)→後継者で揉めたため(最初は実弟を養子としたが、長年かわいがっていた甥を後継者にしたいと考え色々工作したが叶わず)彰仁親王薨去後は小松宮家が断絶してしまう という人生を送った人。

副島種臣佐賀藩士の出身で、藩校の教授(槍術)を代々勤める家に生まれる→実兄は佐賀藩内に尊王と討幕を布教する政治結社「義祭同盟」を主宰していたので、それに参加する→江戸時代には英語を勉強している→明治維新後いろいろあって出世し外務大臣に→政変で政治家辞める→中国大陸に渡って3年くらい旅行する→帰国後は天皇の家庭教師→枢密院(天皇の最高諮問機関)のメンバー入り→内務大臣で政界復帰→3か月弱で失脚→枢密院顧問官復帰→在職中に死去(76歳) という感じだった。

立派な人たちなんだろうが、両人ともなんとも言えない人生を送っている…。石碑は2代目で、初代は漢文(副島種臣は中国で3年生活する程度、中国語をマスターしている)だと書いてあった。初代の碑は彰仁親王さんが陸軍大将・副島さんが枢密院宮中顧問官と、上り調子だった頃の明治22年11月に建てられたようだった。

 

明治頃の石碑って高名な人物に揮毫とか頼んじゃっている場合が多いように思ったけど、お金積めば書いてもらえたのだろうか? ってつまらないことを考えてしまう。中央の政治家より地方の名主達の方が、意外と金持っていたのかなー?

 

内容はこんな感じかな↓

  • 崇神天皇7年、科野国造の五百建命が創建
  • 主祭神大己貴命大国主)と事代主命
  • 科野は後に信濃と名前が改められたが、科野と呼ばれた頃から社があったためにその名が冠されている
  • この常田は古須波と称され、近くに国衙があったので須波ヶ岡または国衙台と呼ばれていた
  • 天武天皇13年、都を科野に移そうと三野王(美濃王)と采女朝臣筑羅(采女竹羅)に地形を調査するよう命じ、この地に来て社に祈願した。天武天皇は社に土地を寄進した
  • 文治年間、常田は八須波条院(八条院)暲子内親王領であり、常田荘と称した。華表(鳥居?)を山の上に建てている。南にある鳥居場という場所はその旧跡。
  • 康安2年、鎌倉管領足利基氏が「彗星が現れた、何事も起こらないように」という願文を奉納。この頃には社の規模が南北8丁(約873m)東西6丁(約655m)となっていた。
  • 承平の乱では、平将門が兵を連れこの地に現れた。小県の国造だった他田大鴨(万葉集収録の「防人の歌」の作者の他田舎人大嶋)の子孫である他田真樹(小県の郡司)は平貞盛に加勢し将門と国衙台の下常田の河原で戦ったが、このために社域が荒廃してしまった
  • 享禄・天文年間、小県郡の豪族の上田、常田、海野、真田が隣郡(更級郡)の村上一族と争い止まず、天正元年ようやく再建された
  • 真田氏と徳川氏が度々争ったために再び荒廃し修復するものもおらず、古例にのっとり租賦(=穀物奉納と労働力提供)を取り立て修復していた
  • 毎年正月15日(上田)藩主自ら儀式を行っていたが、明治になり廃止された
  • 常田の人々はこの事跡が忘れ去られることを恐れ、私に「事のあらましを述べ銅の碑に彫って後世に残したい」と許可を求めてきた

 

付記

  • この碑文は銅碑に漢文で彫られていたが、太平洋戦争時の昭和18年8月政府の金属類回収令で献納されたために初代は失われた
  • 有志により再建がかない、広島大学名誉教授正四位勲二等文学博士手塚吉道氏・門下の文学士小林勝人氏に依頼し、国文に改め石に彫り長く伝えるものである
  • 横関豊龍書 藤澤群黄刻
  • 昭和33年4月29日

 とあった。

 

付記に登場する人物は、

手塚良道さん

手塚さんは有名な方だったらしい。昭和3年の紳士録が閲覧可能だったので、手塚さん分を見たけど。家族の情報や住所まで載っていたよ。昔は大変だなー。

小林勝人さん(多分↓)

横関豊龍さん

  • 地元の書家?
  • 大正時代には信濃黎明会という団体に参加する青年だったらしい

藤澤群黄

  • 群馬県にある石材店の号
  • 初代が長野県出身の石工

 

戦後になると、戦前より人選が落ち着いている感じがした。戦前はキラキラ系人物だったのに。

 

江戸時代に入ってからは上田藩の庇護下、地元民にも大切にされていた神社だったようだ。

 

 

★★★★★

場所が良い。飽きたらイオン行けばいいから。

 

<科野大宮社>

創建年 大昔

御祭神 大己貴命事代主命健御名方神

 

 

近くにはこういうのもあった↓

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国指定重要文化財「常田製糸場」というらしい。

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群馬の富岡製糸場の仲間だー!

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↑常田館(事務所兼住宅)

↓4階繭倉庫

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↓創業者住宅・奥帳場・賄い倉

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↓守衛所・(奥)5階繭倉庫

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↓事務所兼住宅の一部分

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古い建物が残っている。

 

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↑5階繭倉庫の近くまで見学が出来る?

 

…ようだったが、守衛所に「見学は終了しました」とか書かれていた。後で見たけど、「内部の見学は行っていない」ということらしい。つまり、建物には入れないが敷地内は受付すれば入れてくれるようだ。

 

この場所は会社(製糸場を創業した一族が経営しているみたい)の私有地だが、人の姿は見えない。車は出入りしていたので、人は居るはず。

 

ちなみに築年は

  • 5階繭倉庫 明治38(1905)年
  • 常田館 明治39(1906)年
  • 4階繭倉庫 明治45(1912)年(現在の建築基準法に適用させるため改築する)
  • 5階鉄筋繭倉庫 大正15(1926)年

↓左にある5階鉄筋繭倉庫(ベージュ) 

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大正時代に鉄筋の五階建てビルかー。明治末から大正時代にかけて鉄筋コンクリート造りの技術が日本に入ってきたそうだ。元々あった建物が火災に遭い、翌年完成させた建物らしく、景観的にはベージュの部分だけ異質だわ。

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近くの広い駐車場に怪しい看板あった。

狐坂の嫁入り桜という、伐採されずに残された桜が。

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裏手は高台だし、狐坂とかいう坂道でも昔あったんか。

  • 昔、信濃国に子狐を助けた老人がいた
  • 子狐は成長し、嫁入りを迎えた
  • 老人に「あのときのお礼」と素晴らしい引き出物を持参した

という話から、この桜を嫁入り桜と呼んで「縁結び」「子宝」に恵まれる桜と言われる。と書いてあった。そういう看板があるわりには祠とか一切ないです。素晴らしい引き出物も中身は金銀財宝系なのか未来の繁栄を約束する系なのか、はたまたドングリとかの残念品なのか…?

 

まんが日本昔話(1980年5月3日放送分)に「きつねのお礼」という話が放送されており、内容が似ていた。というか、具体的な民話はコレしか出てこなかった。元ネタは「信濃の民話(1957年刊)」収録の「きつねのお礼」で、南佐久郡八千穂村で聞き取ったものらしい。

  • おじいさんが雨でびしょ濡れになった子狐を家に入れ、雨宿りさせた
  • 子狐は雨が止んだ頃、山に帰っていった
  • 子狐は毎日おじいさんのところに来るようになり、おじいさんは時々所用で町に出かけたが帰りを待つ子狐のためにお土産の油揚げを買ってくるようになった
  • ある日、町から帰宅したおじいさんは雨に遭い、寝込んだ
  • 子狐はおじいさんの看病をし、全快したおじいさんは子狐にお礼を言った
  • 町へ出かけるおじいさんは子狐に「油揚げ買ってくるから待っててね」と声をかけた
  • 子狐は、その日母狐と一緒に帰りを待っていた
  • 母狐は持参した折り詰めをおじいさんの所に置いた
  • 子狐は寂しそうな様子で母狐と山に帰っていった
  • 折り詰めは豪華な料理が入った婚礼用のだった
  • その日、少し離れた村では大きな婚礼があった。折り詰めが一つなくなって大騒ぎになっていた

お礼の品も盗んだものか! おじいさんが泥棒の疑いかけられなくてよかったよ。

 

看板に書かれた内容のものは「そういう話が信濃国にある」程度しか分からなかった。

海野宿

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ここは千年ぐらい前から存在している古い街らしい。

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ここから山の方へ進むと、石器時代の遺跡だのノノウ巫女の墓などがあるようだ。ノノウ巫女が気になる。信濃巫と呼ばれた歩き巫女の一種らしい。歩き巫女とはあちこちさすらう巫女さん(後継者として見目麗しい少女を各地で探してきて育てるそうで、当然活動している巫女さんはアラサーまでの美女揃いで金品をばらまきつつ祈祷をこなし春も売ったとか)で、平和な時代には各地で歓迎を受けたとwikiに書いてあった。

それ以前の、平和でない時代は信濃巫は武田信玄に仕える訓練された女忍者とされるようだ。つまりかげろうお銀みたいなー?

とりあえず、家族に「ノノウ巫女ってなんだろね!?」と言ってみたが「ハァ?」と返されたので行かないことになった。

 

まずは海野宿に入ってみる。

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この祠辺りから街域になるのかな?

先へ行くと古い建物が現れ始める。

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海野宿のメインストリートにはこんな場所が↑

以前来たときもあった気がする(確か10年近く前だったような?)。その当時見かけたとき(これ高く売れそう)と思ったが、もうサビサビで買い手つかなそう。もったいない。

 

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人気無し。

海野宿に隣接する保育園のお散歩でワーワーしていたが、観光客はほぼいない。

 

この場所には案内看板があった。

この場所は宿場町の真ん中辺りだろうか。

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元は海野氏の城下町だったらしい。賑やかな場所だったのが、上田城に城下町を造るにあたりそちらに人を移すこととなったらしい。

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街の真ん中には用水路が流れていた。

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家屋の玄関先には用水路への階段があり、生活用水だった。今は当然使われておらず、汚い。

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本陣はこの場所にあったようだ。宿場町になった時は田中宿と上田城下町の間の宿扱いで本陣は田中宿にあったそうで。寛保2(1742)年の大洪水で田中宿が壊滅状態となり、田中宿一時廃止→海野宿が本宿に昇格したときにここが本陣となったようだ。

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明治7(1873)年進善学校は、脩斉学校と夏目田学校と共に公立学校として誕生したそうだ。海野宿から1kmと少し離れた田中小学校に統合されたそうだ。

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本陣は他の建物とはやっぱり造りがちょっと違う。

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大きい蔵もある。

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蔵も分厚い壁で出来ているけど、卯建もあった。これも火事除け。

海野宿が本宿に格上げされた後、田中宿は復興して数回の海野宿側との交渉後にまた宿場町となった。本陣も海野宿・田中宿両方に置かれ、「どちらに泊まるかは旅人次第」という決まりとなった。しかし、慶応3(1867)年に田中宿は燃えた。その後も再建されるものの。災害が多い田中宿に泊まらず、海野宿を選ぶ人が多かったらしい。

千曲川のすぐそばにありながら、江戸時代からの建物が残されるほど火災も自然災害も少ない地区だったのね。

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ちなみに田中宿跡は現在の田中駅周辺のようだ。あちらは跡形もなさそうね。

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マンホールの蓋(旧東部町仕様)も海野宿だった。

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↑こんな子もいた。2020年、どれほどの日本人はこの子を甘エビと呼んだだろうか。見た目甘エビとほど遠い、人魚かどうかも謎の生き物だよなーカテゴリは妖怪らしい。

手に持っている物は蚕らしい。

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養蚕も盛んだったから、という理由で。

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ここには媒地蔵という縁結びのお地蔵さんがいた。

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  • 加賀国の殿様には年頃の娘がいたが、なかなか良縁に恵まれなかった
  • 縁結びの地蔵尊が海野にいると聞き、参勤交代の折りにお詣りしていった
  • すると立派な男性と結婚することが出来、殿様は大変お喜びになった
  • 海野氏家臣の赤石藤治友信が媒地蔵を安置したことが始まり→天文年間衰退→寛永2年地蔵寺として再興→元禄4年現地移転→昭和26年焼失→廃寺
  • 廃寺となったが、平成7年山門と常夜灯は再建した

 

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田中学校支校跡という碑もあった。進善学校・風声学校が田中小学校となる過程にあった小学校なのかな?

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↑こんな表もあり、家族も何故か喜んでいた(こういうの好きなのかもしれない)。

 

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白鳥神社に来た。

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白鳥神社という名前は全国各地にあるが、ヤマトタケル由来が多いらしい。この神社も、「東征の折りにヤマトタケルがこの地に滞在されたことから白鳥神社と称し」と書いてあった。ヤマトタケルは父の景行天皇の命令で西征・東征を繰り返し帰京の途中で倒れ、白鳥となり天へ還ったという人であるそうだ。ちょっと可哀想な人生の人らしい。白鳥になった日本武尊がこの場所にも降り立ったので、神社が建てられたようだ。

主祭神日本武尊だけど、この地域を治めた豪族の海野氏の祖とされる、貞元親王清和天皇第三皇子)・善淵王・海野広道も祭神としているそう。 ちなみに、清和天皇第四皇子の貞保親王を祖先としているものもあるらしい。貞保親王の母親は有名な藤原高子だそう。貞元親王や貞保親王は9世紀と10世紀に跨がる時代に生きていた人達であるようだ。善淵王は貞保親王の孫で滋野氏の祖、海野広道は滋野氏後裔で海野氏初代だと書いてあった。ややこしい。

海野氏という一族が有力なので、治承5(1181)年の白鳥河原の勢揃もこの場所を選んでみたっぽい。

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すぐ近くに千曲川がある。こういう河原でエイエイオーってやってたんだろうか。

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実は、今回は白鳥河原や海野宿をメインにしていたわけではない。

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落ちた海野宿橋を見たかったのだ。ポッキリいっちゃってる!

ここは川筋を変えるとか、かなり大がかりな工事をしており、新しい橋ができるまで何年かかるんだろう? 急ピッチで工事してたせいか、杜撰施工もバレてしまったので大変なことになったらしい。

 

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 この日のご飯はこれだった。

 

 

<海野宿>

 開設 寛永2(1625)年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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↑コレに行った。

事前情報では「わりと難しい」と聞いたけど…本当に小学生・幼稚園児向けかと思っていたのよ。そのぐらいの年代の子が居る家族連れが1~20組ほど冊子を片手に歩いているのを見かけた。これで1日潰せたけどさ、私はノーヒントじゃ解けなかったわ。今は反省してクイズ雑誌買って解いている。うちの子供は問題一切解かなかった、考えたくないと言っていた。

善光寺近くで散歩

数年ぶりに善光寺界隈を歩いた。善光寺までは行かなかった。

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用事があったけど、思いの外早く着いてしまい、ウロウロすることにした。雪降っていて寒かった。

曹洞宗黄梅山栽松院というのが正式名称で、しまんりょとも呼ばれているらしい。通るだけでマジマジ見たのは初めて。ずっと神社かお堂だと思っていたのに、実はお寺さんだった。

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非常に古そうなお寺である。創建は戦国時代まで遡るらしい。「しまんりょう」というのは嶋の寮(寺)が訛ったものらしく、その意味は「島の観音堂」だそう。このお堂の両側に川が流れており「島のようだったから」らしい。

お堂を建てたのが名主で造り酒屋の菊屋(山嵜家)というおうちで。菊屋稲荷を屋敷神としていた家らしい。

 

↑菊屋稲荷

善光寺近くに大邸宅を構えていた菊屋は強運のおうちで、大火事(桜屋火事・善光寺門前町が丸焼けした)にも地震善光寺地震震度7で死者八千人以上)にも被害があまり無かったらしい。セントラルスクエアの北側にあったという菊屋さんが明治以降どうなったのか分からないが、山嵜家の邸宅ってひょっとしてアレじゃないかな? という心当たりはある。その建物は「明治時代の商家」だと紹介されていたが、菊屋さんの邸宅だったものかどうかは分からず。

菊屋稲荷は菊屋跡地から1kmぐらい離れている。

 

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↑嶋の天神

なんだかよく分からず。頭良くなりますように。

 

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↑尾上出世不動尊

詳細分からず。戸隠から移転してきた?

 

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↑地元商店街の守護社?

 

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↑石碑

 

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↑子育て赤地蔵尊

赤いのは魔除けで塗っているらしい。お地蔵さんは地獄から救ってくれる存在だそうで。六地蔵はそれぞれが地獄の六道におり人々の代わりに責め苦を受けてくださるらしい。また、賽の河原で石積みしている幼気な子供達も守ってくれるそうで、子供の守護神にもなっているそうな。

 

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↑摂社たち

 

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↑石碑

 

社も石碑も古そうだけど、街の開発などで行き場を失い一カ所に集めて祀っている感じもする。

 

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↑古い倉庫もあった

 

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門前には黄梅も咲いていたよ! 寒そう。

 

権堂方面へ。

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↑於菊稲荷社

おどろおどろしい。「お菊」っていうと播州皿屋敷の人というイメージが強すぎなんだろうか。

この場所は菊屋跡地のすぐ近くで、もしかしたら菊屋さんと関係があるのかもしれない。

 

住宅地の真ん中の、とても分かりづらい場所にあった。

 

 

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↑延命庵

こちらも於菊稲荷、菊屋さん邸宅跡のすぐ近くにあった。

経読み地蔵とも言われる。むかし菊屋のご主人が目の病気で寝込んでいた。蔵の中からお経を読む声が聞こえた為に蔵の扉を開けたら、小さなお地蔵さんが熱心にお経を唱えていた。で、ご主人は全快したという。以来、目の病気を治すお地蔵さんとして信仰を集めているそうだ。

菊屋の一族はお稲荷さんにもお地蔵さんにも愛されているのか。そりゃ大火事にも大地震にも強いよなー。

 

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秋葉神社まできた。

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勢獅子というのは明治4年に長野県誕生を祝って始まった獅子舞だそうだ。

秋葉神社軻遇突智命(火の神様)を祀っている。

権堂は歩けるが、大通りを越えて東にある鶴賀新地は未だに行ったことがない。子供の頃、一度大通りを渡って向こう側まで行ったことがあるけど、なんか空気感がおかしくて戻ってきた。その後鶴賀新地のことを知ったが、もう行こうと思わなくなったよ。長野市民なら一度は新聞で映画上映案内をチェックしたことがあるはずのニュー商工も鶴賀新地のどこかにあったはず?

 

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権堂にあった遊郭は鶴賀新地に移転した後、消滅したみたい。鶴賀新地の遊郭は現在も廃墟となって残っているらしい。

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権堂のアーケード街にはお寺さんもあった。

往生院というそうだ。説明板には

  • 大同2(807)年に弘法大師善光寺参りに来た際寶乗寺を創建
  • その後の正治元(1199)年に同じく善光寺参詣の法然がこの場所に逗留し浄土宗往生院と改めて現在に至る
  • 権堂という地名も往生院由来で、建久8(1197)年源頼朝善光寺再建のために御本尊をこのお寺に移し仮堂(権堂)としたからだそうだ。

権堂に遊郭が出来る前からずーっとあるお寺なのね。

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本堂らしき建物は御影堂(法然上人を祀っている?)になっている。

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宇賀神大弁才天という名前の神様で、長野県内最古と書かれていた。宇賀神大弁才天は中世以降に信仰された神様らしく、宇賀神と弁財天が習合したとされる。

 

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こちらも石碑や石塔がひっそりと置かれていた。

 

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時間になったので、ご飯を食べたよ。とにかく美味しかった。このお店は1年ほど前から行ってみたかったんだけど、なかなか善光寺界隈をうろつく機会が無く…大満足だよ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

12月から1月にかけて元々忙しく、そのうえオタクな活動も数年ぶりに再開し休みはほぼ家に居た。数年ぶりにゲーセン行ったが、びっくりするぐらい何も取れなかったからもう行かない…。

真っ当な生活をしていた数年間のうちに昔ハマっていた作品の20周年記念的な新作コミックスが出ていて驚いたり、休眠していたヤフオクのアカウントを覗いたら気持ち悪いぐらい女の子のフィギュア買いあさっていた履歴に震え上がったりした。

最盛期には数百冊ほどあったマンガ本を実家へ取りに行ったら一冊も残っておらず(恐らく薄い本共々処分したらしい)、その代わり大量のチョコエッグのおまけの動物達、ガチャガチャやゲーセンの戦利品のフィギュア・ぬいぐるみが残されており「宝の山だ!!」とテンション上がる。が、連れ帰ることに関しては家族に嫌な顔された為に断念。

今の家も家捜ししたところ、昔買ったようなマンガ本は岡田あーみんとか家族が読まないであろうものしか残っておらず、オタ活を止めてから買ったコウノドリとか真面目な作品しかない。その代わり古いゲーム機(サターンから初代DS・DS Liteまで)や大事にそうにプチプチに包まれた小さいフィギュアの女の子達(ヤフオクで買いあさっていた大事なお人形さん達だよ!)、未開封のゲーセンで取ってきたガンダムの機体とかが出てきた。

今となっては何がキッカケで止めちゃったのか覚えていないが、何か物凄くショックなことがあったに違いない。止めた大体の時期は分かったが心当たりがたくさんありすぎたわ。とりあえず今回買った某作品の20周年記念コミックスのために本編(TVアニメが原作でキャラの設定等が異なる劇場版がある→コミカライズ全5巻+劇場版1巻→記念新作マンガ1巻という流れ)アニメのDVD全巻買うしかないかなー?

 

食べ歩きはしていたよ! 

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林道猿ヶ馬場線

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中身はほぼ北国西脇往還善光寺西街道)らしい。善光寺西街道は塩尻市洗馬と長野市篠ノ井を結ぶ道でもあり、国道403号線が一応、後継路線となっている。が、善光寺西街道を踏襲している部分は千曲市筑北村との間のみとなっている。しかし403号は筑北村麻績村の間も青柳宿を通らない等かなり差異がある。千曲市内でも善光寺西街道部分は林道化されており、その名称が猿ヶ馬場線というそうだ。

 

ちなみに403号分岐点はここ↓

善光寺西街道(旧道)は左の狭い道、現国道403号は右へ。

左へ進むと立峠がある。

 

筑北村西条から先は旧東川手村(潮村・潮山中村・潮沢村などが明治に合併して誕生した村)を通過していた道を改良したものらしい。旧東川手村の木戸という地籍で川手道(現国道19号線)とぶつかり、403号は松本方面に向かう。

 

川手道は国道19号の前身となっている。↓分岐点

 

国道19号は左。国道403号は右。真ん中は…国道19号と最終的に合流するみたい。

 

木戸と西条を結ぶ道は酷い山道でサグラダ・ファミリアみたいに延々と工事し続けている。安曇野IC~麻績ICで通行止めになった場合の代替道路に指定されているので改良し続けているようだ(実際、安曇野IC~麻績ICで通行止めになっちゃったとき、その道を通らされた。九十九折りの狭窄な道路が賑やかになった。その中には品川ナンバーのキャデラックとかポルシェとか大都会からやってきた高級外車もいっぱいいた。あの人達こんな山道通ったことないだろうなと思った)。昔は重要な道ではなかったようだが、山奥には平家の落ち武者伝説が残る集落もあったりするので人は昔から住んでいたらしい(この近くには縄文人骨300体ほどが発掘された遺跡もあるとか)。

国道403号の元になった古い道は一応まだ残っている気がする(グーグル先生の地図では分断されているが、古地図と照らし合わせるとこれかなー? って感じの道がある)山深いので荒れてそう。街道(里道らしい)ですらないので今後とも整備されないだろうねー。

 

善光寺西街道という古い街道の後継路線とはいえ、この辺りは明治以降に切り開いた幹線が多いので、古い道は放置されてきた感じがする。それが良かったのか、文化庁の「歴史の道百選」にまで選ばれてしまった。林道猿ヶ馬場線も歴史の道百選に指定されている。

 

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全線舗装路となっているらしい。それなりに需要があるようで、グーグルカーは踏破している。探せば動画でも出てくる。

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この道、とにかく杉が多い。即位記念で杉を植えやがったようだ。林道は昭和38年に開設されたそうなので、紀念林って平成での即位した記念なのかな? とにかく杉の香りが濃厚。これ、春に通ったらアレルギー反応で死ぬんじゃないかと真剣に思う。

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轍があるので誰かが頻繁に通っている様子。

 

猿飛池という忍者っぽい池とか。

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 茶屋もある。

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↑火打石茶屋跡

  • この辺りには多い時で9戸の茶屋があった
  • うち3戸は松代藩命により茶屋を営んでいた
  • 藩命というのは、山賊撃退と旅人の面倒を見ること
  • 3戸のうち名月屋という茶屋は本陣の格式があり、屋敷の門や屋根に六文銭をあしらい、お殿様がお越しの際休憩宿泊も出来た
  • 名月屋には芭蕉の句碑が建てられていた

この狭い場所に屋敷があったらしい。

句碑というのは

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↑これのようだ。

こんな場所に茶屋が点在するとか。店員さんが泊まり込みで働いていたのかなと思うと…ちょっと働くの躊躇するなー。夜なんか真っ暗だよ。

句碑・盛り土の奥に道らしきものがあるが、その奥に屋敷があったのだろうか。この林道も正確に善光寺西街道をトレースしている訳ではなさそうなので、旧道かもしれない。

 

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↑どう見ても道です、というモノが林道の横に現れたりしている。状態がかなり良いやつなので頻繁に整備している感じよ。

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↑こういうのもあった。一里塚だそうだ。

  • 近世の主要街道の両側に一里(約4km)毎に土を盛り、里程の印とした塚
  • 塚上に榎や松を植えることが多い
  • こちらの塚は「火打ち石の塚」という
  • 塚は昭和38年の林道開設の際、四カ所に分断し、特に西側の塚は排除されてしまう
  • 現存する東側の塚は直径6m高さ3m
  • 他にも「稲荷山」「一里山」「市野川の一里塚」があったが、現存しているものはない

 

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松崎茶屋跡も林道から少し外れた、奥まった場所に跡地があった。

 

 

ここまで来たら、ナビが右行きを示した。いやいや、どう見たって左じゃないの!? ナビは「左は行き止まり」と言い出す。この林道で行き止まりとなったら詰む。しかし先の桑原宿まで行けるはずなんだがねー。

色々考えたところ、戻ることにした。

ちなみに、この場所は「のぞき」という場所で、大井茶屋と展望台があったらしい。お金を貰い設けた望遠鏡から善光寺本堂を覗かせた場所だそう。タワーの展望台に備え付けられた、100円入れると使える望遠鏡的なヤツだね!

 

聖湖までは急坂だった。車の横滑り警告灯がチカチカするー。路面に敷き詰められた杉葉で相当滑っている。道路幅は危険なほど狭くなかったが、警告灯の点滅は本当に気持ち悪い。

 

滑りはしたが、無事に林道入り口まで到着した。

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★★★★★

滑った件も含めて、なかなか楽しかった

 

 

<林道猿ヶ馬場線>

開設年 昭和38(1963)年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大沼・隠れ窪

聖高原の山の方へ行けば、古い別荘が建ち並んでいた。

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大沼って場所まで来た。

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スズラン湖ともいい、深い谷をせき止めて造った湖だそうな。

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東南方の堤防は「ハイドロック、カーテンクラウト」という特殊工法により強固に造られているそうだ。ちなみに、山の中をウロウロしたせいでどこが東南方向なのか分からなくなっており、それっぽい部分を写真に収めてみた!

「ハイドロック」「カーテンクラウト」共によく分からず。それとなく似たような単語を探してみた。

  • ハイドロリック=油圧関係かな?
  • カーテングラウト=ダム基礎岩盤にボーリングで穴を開け、グライト(薬剤の名称らしい)を注入して設けカーテン状にし水を遮っている

特殊な薬剤を使い固めた堤防ということなのかしら? もっと分からない事に、ココの分類は「フィルダム」だそうで。つまり、ここはダム湖ってことなの? 説明板の内容分かりやすくしてよ。

 

フィルダムとは、コンクリートを使わず自然の土砂・岩を盛って造ったダムのことだそうだ。着工100年で話題になっていた台湾の烏山頭ダムセミハイドロリックフィル工法というもので造られている。ハイドロリックとかフィルとか関わり合う単語が使われているから、きっと烏山頭ダムと同じような造り方なんだろうと勝手に思った。

 

水量は8万㎥。昭和39年完成。平成13年に改修工事が行われているようだ。

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本当は北山ダムのダム湖をなんとなく目指していただけど(ダムの下からしか見たことなかったのよね)、どうやら道を間違えてしまったらしい。だけど、なんかもう十分な気がした。

 

この大沼から「福満寺」というお寺さんまでの4キロ半までの道、昭和43(1968)年から自衛隊が訓練を兼ねて敷設した道路だそう。塩那道路みたいなヤツかー。事前に知っていたら走っていたのに残念。

 

↓この道路らしい。

 

 

その時は知らなかったので、普通に元来た道を戻った。

 

途中、「かくれくぼ」という看板があったので、ちょっと車を止めた。年季の入った看板だわ。昭和39年だって。さっきのダム湖の整備と一緒に造ったんだね。

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  • 戦国時代の麻績城主服部氏は麻績城の背後が極めて脆弱であるため、この場所に度々兵を隠した
  • 「かくれくぼ」は、東北の栗林から南西の菅に至るV字の谷で下ると「地獄谷」、「佳香砥の滝」、麻績城に達する
  • 谷の長さは2km

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↑この方角に多分麻績城があるのかな。最近山に登ってないなー良い季節なので登りたいなー。

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色々な話を照らし合わせると、

  • 服部清信が領主となり麻績古城を築城
  • 子の清正が更に守りを固めるため麻績城を築城(隠れ窪は麻績城の守備用なので清正が設置?)
  • 諏訪頼重の側室の小見(麻績)の方は服部氏出身で諏訪御料人の母、武田勝頼の祖母にあたる
  • 服部氏自体は村上氏に属している
  • 菩提寺は「法善寺」だが、このお寺さんは武田家と繋がりがあるらしい(服部氏を滅ぼすためにまず法善寺を懐柔したとか)
  • 服部氏は武田方の青柳氏(青柳氏は隣の領主)に攻められ越後へ、青柳氏は麻績城と青柳城の城主となる(このタイミングで青柳氏は麻績氏を名乗る)
  • 服部氏は武田家が滅ぼされた後、上杉氏の支援を得て麻績城の城主に返り咲く(麻績清正こと服部清正)
  • 小笠原氏と上杉氏との争いになり、服部氏は青柳氏と共に小笠原氏についた
  • 麻績城は上杉氏に攻められ、服部氏は滅ぼされる
  • 青柳氏もまた小笠原氏により力を失う

という流れのようだ。

隣の領主だった青柳氏が一時麻績も支配していたものの、麻績周辺は「服部氏」一色のようだ。菩提寺の法善寺の他、海善寺というお寺さんも服部清信の兄弟が住職で。海善寺は麻績神明宮の神宮寺じゃないかとも言われているらしく、当の麻績神明宮も宮司家の養子として服部清信の兄弟が入っているそうだ。

菩提寺の法善寺は信濃三十三観音霊場の第1番札所となっている。聖博物館の現在のメインテーマである信濃三十三観音霊場ですよ。麻績村で一番大きなお寺さんじゃないのかな?

こんな服部好きっぽい場所なのに、多分服部氏は村から完全にいなくなってそうな雰囲気。隣の領主だった青柳氏とは違うね(確か青柳宿本陣家として存続していたはず)。寂しい。

 

あと、ハットリっていえば忍者でしょ…? 麻績村誌の目次だけ見られたんだけど、その中に「服部氏・伊賀氏の入部」とか「服部伊賀守」とかいう文字が踊ってた。やっぱり忍者なのか!

 

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兵を隠したとかいう谷だけど、とにかくスケールが大きく。数千人いけるんじゃないの? という規模のように思えた。谷底に別荘らしき建物が点在しているんだけど、今居る場所からだと相当下に見える。広いんじゃないかなー? これじゃ隠した兵士も迷子になるんじゃない?

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説明板にあった「佳香砥の滝」は風光明媚な滝だそう。

 

 

 ★★☆☆☆

大沼の説明板、少し考え直した方がいいんじゃないかと思った

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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近所の隠れている豚カツ屋さん。場所は下調べしなければ辿り着けない。その反面、非常に有名な店。平日行ったにも関わらず客が多め。1/3くらいが予約客っぽい(予約しないと食べられないと考える常連さん達だろうか)。

良い肉であることはもちろん料理の腕が良くないとここまで美味しくならないよね、と確信した。どうやったら料理って美味しく作れるようになるの? まずは肉叩き買ってみようかな。

聖高原

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昔よく見に来ていた聖博物館がリニューアルした。平成24(2012)年と平成26(2014)に行ったようだ。

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昔、雪が降る猿ヶ馬場峠を6人の旅人が歩いていたが、道を踏み外し聖湖にドボンして死んだ。不憫に思った村人は道標兼供養塔として6基の地蔵を建てた。という内容の案内板があった。

外の公園は無料で入り放題。

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ここには他にも石仏がいらっしゃる。

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↑なんて書いてあるのか分からない石碑。村境碑かなー? なんか埋まっちゃってない?

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↑井戸?

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馬頭観音とか。

峠にはたくさん石碑がある。多ければ多いほど難所だったんだろうな、思う。元は別の場所にあったようだが、すべて博物館の敷地内に移動させてきているらしい。

 

外には飛行機さんたちがたくさん!

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↑F86セイバー

1944年よりアメリカ空軍が開発を始めたジェット戦闘機。1947年初飛行。1950年代以降世界中の空を飛び(もちろん日本にもいた)、朝鮮戦争で活躍し、その後は空対空ミサイルを配備した機体が成果を上げたので9860機も生産された名機だそうだ。日本では1955年より配備され始め、航空自衛隊主力戦闘機として435機も運用された。愛称は「旭光」。ブルーインパルスとかで使われたらしい。1982年退役。

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前は乗れた気がする。さすがに劣化酷すぎてカバーかけたんだな…。

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↑T-34 はつかぜ

レシプロ機。Tが示すように練習機、しかも航空学生が初めて乗る飛行機らしい。1948年初飛行。コレをベースに改良していった練習機が国産されている。現役はT-7というタイプで2003年から。今はターボプロップエンジンを積んでいるようだ。
 

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軍艦陸奥(主砲のみ)。

この軍艦、戦時中に謎の爆発で沈んだ後、戦後引き上げられ日本各地で部品が展示されているみたい。こんな山奥にも一部運ばれた。ここまで運ばれたいきさつが書かれていた。

  • 戦争で日本国土のすべてが悲惨な不幸に遭ったが、その代表の一つが戦艦陸奥の爆発
  • 原因不明(人為的と結論づけられた)で爆発し、乗員1221名が艦と共に瀬戸内海に沈んだ
  • 27年後に変わり果てた姿で引き上げられた
  • 戦争の犠牲は繰り返してはならぬ、戦争が起きなければ目にすることはない悲惨な事実を「戦争を起こさない平和を願う象徴」としたい
  • 戦艦陸奥の主砲を展示すること=悲惨な事実=平和を願う象徴
  • また、戦艦陸奥は我が国の造船技術の粋を集めた世界最強の軍艦のひとつ(当時は戦艦ビッグ7のひとつに数えられた)であり、技術の結晶である陸奥の一部を展示することで我々の技術を誇りたい

ということらしい。

陸奥長門と交代で連合艦隊の旗艦となっていたし、ワシントン海軍軍縮条約で問題視されたとかいう戦艦でもあるため当時は知名度が抜群であったらしい。私のような者ですら長門陸奥は聞き覚えがあるしねー。

軍事技術が民間転用されたものなんて山ほどあるし(むしろ軍事と一切関わりなく開発されたものは存在しなさそう)、軍事関連排除すると生活出来なさそう。多分、陸奥を造ったときの技術は今もどこかで役立ってるんじゃないかなー。

 

最後に「平和を欲するならば戦争を理解せよ」というリテルハートという人(バジル・リデル=ハートのことかなー? ナイトの称号を持つイギリスの軍事評論家)の言葉で締めくくられていた。リデルハートは「間接的アプローチ」という戦略を提唱した人として知られるらしい。これは、武力を行使し正面から敵とぶつかるのではなく、経済封鎖したり物資の輸送を邪魔したり兵站や指揮系統を壊したり、武力衝突以外のあらゆる手段で相手を弱体化させ、戦争をせずに勝つ方法のことのようだ。現代的な感覚・考え方に近い感じなのかな?

 

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↑Fー104 スターファイター

説明板には「この飛行機はマッハ1.5級の某国爆撃機を迎撃する目的で開発されたマッハ2級の要撃飛行機である」と書いてあった。某国かあ。ちなみに、使用国として「西ドイツ、ベルギー、オランダ、イタリア、カナダ等」とあった。察して欲しい、というやつか。つまり「マッハ1.5級の某国爆撃機」=MiGー15なのね。

1954年初飛行。F-104を開発したアメリカではあまり使用されずに西側諸国メインで配備されていって、2004年のイタリア軍で退役を迎えた。一方、MiGー15は運用中かも(北朝鮮)というところ。

製造はロッキード社で、展示機体は日本国内でライセンス生産されたものだそう。自衛隊でも1961年から計230機導入したけど事故が起きたりで、1974年には後継機選定作業が始まる。1986年退役。後継機のF-15Jは1981年配備で近代化改修されつつ現役だってさ。

その後はこの機体はアメリカに返還されたり、バラして他の武器にされたり、「標的機」として無人化改造された。「標的機」は1997年に最後の機体が撃墜。これはこれですごい一生だわ。

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エンジンは抜かれていた。屋内展示されていた。

 

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↑D51 蒸気機関車

ひっそりとこんな奴までいたよ。

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昭和11年、国鉄の技術の粋を集めて誕生したそうで。計1115両の、日本における機関車の形式で最も造られたタイプだそうだ。

このD51ー769は昭和18年生まれ。東北本線北陸本線中央西線と走って昭和47年使用停止。当時の金額で400万円余りをかけて、麻績駅(聖高原駅)からこの場所に安置された。麻績駅からは随分離れているが「どうやって持ってきたか」については屋内展示に答えがありました。

 

この機関車も運転台まで覗けた気がする。この機関車にATS表示灯がついておりドン引きして鉄道マニアに話したところ、昭和40年代なんて普通にあったよATSって返された。どうやら、昭和41年に国鉄全線でATS導入されたようだ。どうやって電源取っているんだ…と思ったら発電機(タービン式)もバッテリーも積んでいるんだそう(前照灯とかでも電気必要みたい)。水と石炭だけで引退まで動いていたような、超アナログなイメージしかなかったので、蒸気機関車に申し訳ないと思った。

麻績駅のある篠ノ井線は昭和45年まで蒸気機関車が走っていたようだ。その年ディーゼル機関車が配備されたらしい。こちらも「科学と技術の変遷を探求する教材として」と書かれていた。

 

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他に何か(Cー46らしい)のコックピットだけあった記憶があるんだけど、なくなっている。

 

室内展示にも行った。

ミニ博物館になっていた。なんと、中身は「善光寺街道と信仰」みたいなテーマで統一されていた。以前の雑多な雰囲気がなくなってしまい、すっきりした品行方正な優等生風になってしまった。昔はホルマリン漬けのケースや剥製が並び(これはおそらく麻績小学校で使われていたモノだと思われる)、村内の家々から寄付されたであろう昔の生活用品が並び、ごちゃごちゃしていた。航空博物館はパイロット候補生の教科書や細々したグッズが展示される一方、JALの昔のスチュワーデス制服だとかパラシュートとか訳分からんものがたくさんあった。それがないんだけど…あれが良かったんだけど…。

 

現在は仏像が多い。小さい仏像が凄い数並んでた。仏像を趣味で彫っていた人の作品だそうだ。一部しか展示されていないということだが、それでも大量だった。

あとは「信濃三十三観音霊場」の紹介で、その中のお寺さんをいくつか行ったことがあったね、ぐらいで終わる。さくっと見て回れる程度だった。12月から冬季休館に入るからと折り紙作品を色々とお土産で頂いた。

 

帰りに受付のお姉さんに話を伺ったところ。

  • ホルマリン漬けとかはどこかに仕舞ってあると思う
  • 軍関係は自衛隊にお借りしていたので返したと思う

JAL関係は聞かなかったが…こちらも返したのだろうか。軍関係のは充実してたんだよ、そりゃ自衛隊だって欲しいかも。JAL関連も然り。ホルマリン漬けだって欲しい博物館はあると思うわ。

お姉さんはこれ以上詳しく話したくなさそうだったが、昔の展示物の所在は訪問客からよく聞かれているような雰囲気。特にホルマリン漬けは「子供に見せたかった」という人が結構いるんで、と言っていた。昔の小学校にはありがちだったかもしれないが、私の小学生時分は学校で見た記憶が無いわ。

 

その後はランチですよ。

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S660は路駐だが、運転者がインスタ映えを狙ってあらゆる角度から車の写真を撮っていた。我々がその姿を眺めていたことを気付いていない。ここ景色がいいしね。

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子供は「そばを寄越せ」しか言わないので、メニューに悩むことがない。ネットで見かけたビーフシチューが食べたかったが現在はメニューになく。オススメのシードルで煮込んだロールキャベツを食べた。

 

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聖湖は物凄く寒かったのに釣り客がいっぱいいたよ。

 

 

★★☆☆☆

前が良かった…

 

 

<聖博物館>

開館 昭和40(1965)年

岩松院館

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小学校の遠足だか社会科見学で来た(記憶がある)岩松院。ここは葛飾北斎の天井絵「八方睨み鳳凰図」があることでも知られる。絵は「どこで見上げても鳳凰と目が合う!」という触れ込みだが、当時の私は「目ぜんぜん合わないんだけどw」と思った。その所為で天井絵・岩松院のことを覚えていた。まあ心の清い人だけ目が合うように設計されているのかもしれない。

 

ここは地元の土豪・荻野さんの館跡だと伝わり、詰めの城は背後に見える山中にある雁田城らしい。雁田城は雁田小城・雁田大城からなる複合施設のようで、岩松院の背後の瘤みたいに盛り上がった部分に雁田大城がある。

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雁田大城より奥に進むと「千僧坊」という表示がある。これは滝の入城の郭の一つ。千僧坊から姥石方面に曲がらず、尾根伝いに登ると滝の入城の本郭に到達できる。この地図には載っていないが、どうやら滝の入城の住所が隣村(高山村)になってしまうらしく、そのため小布施町のハイキングコースには含まれないようにしているのかも?

千僧坊現地の案内板には「岩松院の前身である千僧林念仏寺から名付けられているが、ここに念仏寺があった訳ではない。寺址ではなく城址の一部と思われる」と書かれているようだ。隣村の城「滝の入城」には触れない。滝の入城は近隣で最も高い所となるようだ。

滝の入城から、北西の尾根を麓に向かって下りていくと「二十端(つつはた)城」というお城がある。二十端城は一の城・二の城・三の城・四の城・五の城からなる。雁田山周辺はお城だらけ。やだー大規模要塞じゃないの。

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ちなみに雁田(苅田)城は、東条荘苅田郷の領主だった平(苅田)繁雅が造ったとも言われる。元暦元(1184)年、源頼朝が東条庄のうち高井郡狩田郷の領主職を平繁雅に戻すと認めた。源平合戦で旧領を失っていた平繁雅が嘆願を出していたらしい。平家(越後平氏)の傍流で、横田河原の戦いをもちろん平氏方(新潟から来た城氏の配下)として戦い、負けてしまったみたい。

だが、この人は平家にも近いが鎌倉幕府源頼朝)にも近い北白河院(彼女の祖母は源頼朝の命の恩人であり、平清盛の継母である池禅尼)という女院の側近(平繁雅の奥さんが北白河院の乳母をつとめ、夫婦で養育に当たっていた)だったようで、その縁で旧領復帰出来たのかもしれない。平清盛の曾孫に当たる男子と平繁雅の孫が結婚しているという感じで、血縁では平家が濃く、源氏とは婚姻関係なし。

また東条庄は八条院領に含まれる。八条院領は北白河院の夫(後高倉院)から娘(安嘉門院)に相続されたが、実質的に管理していたのが北白河院らしい。八条院領は以仁王と源氏の挙兵と関係が深い。

平繁雅本人は皇族に仕える身なので、在京し続けたようだ。雁田城には関わりがあるようだが、麓の岩松院館とは関係ないっぽい。

 

二十端城は荻野氏(初代は荻野常倫というらしい)が造ったと伝わる。荻野氏は高井郡の名家・(信濃源氏)井上氏の庶流と言われる。

  1. 井上満実の三男・家光が、保元3(1158)年に丹波国芦田庄(兵庫県丹波市)へ配流される
  2. 以後、この系統は流刑先の地名「芦田」を名乗る
  3. 建保3(1215)、芦田為家が父から所領を分知され、移り住んだ地名から赤井氏を称する
  4. 赤井(芦田)為家の次男・重家(朝忠)は家督を継げなかったが為家から領地を分けてもらい、荻野家を興した
  5. この萩野一族出身・萩野常倫が小布施の地頭として赴任してきた?

という説があるそう。ああ里帰りかー。

  1. 太平記に出てくる「丹波国の住人荻野彦六朝忠」(この人は太平記の作者とも言われる児島高徳と行動を共にしていたので、”太平記”中では活躍する)
  2. 正慶2/元弘3(1333)年、後醍醐天皇挙兵に応じて参戦→敗北
  3. 足利尊氏の配下になる
  4. 貞和元/興国6(1345)年、足利尊氏と戦う→敗北
  5. 貞和4/正平3(1348)年、高師直の配下として新田と戦う
  6. 文和2/正平8(1353)年、新田と戦う→敗北→以後不明
  7. そんな萩野朝忠の子? 荻野常倫が小布施に赴任

 

小布施史では、室町時代初め荻野常倫が故郷の丹波国から栗の木を持ってきて植えたことから、栗の生産が盛んになった、とある。丹波栗は古事記日本書紀万葉集にも登場するほど歴史ある丹波国の名産品だそうだ。

小布施町公式では、貞治6(1367)年に荻野常倫が二十端城を築いたことになっている。ただ、荻野常倫本人は記録がほぼ無く謎の人物とされる。

 

永享2(1430)年、浄土教系の念仏寺が建てられ、その後の文明4(1472)年に同じ場所で改めて荻野常倫が開基となり、建てたお寺が曹洞宗の岩松院だという。えらい長生きだなと思ったが、恐らく荻野常倫と荻野氏歴代の菩提寺として建てられたんじゃないかなー?

 

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お寺の周りにはお堀の成れの果て? みたいなものもあった。

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山門。

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仁王さん。

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↑あの山の中に雁田小城があるらしい。

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雁田城登山道はお寺の脇道から↑

 

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お寺は周囲より高い。

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ゴツい石垣の上にある。

登り切った先には。

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小布施観音というらしい。永遠の平和を祈念。

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こちらが岩松院本堂。ちょこっと見える鳳凰図が件の「どこでも目が合うよ」という天井絵のレプリカと思われる。どうせ今日改めて見たって目が合うとは思えないわ。

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謎の石柱もあった。意味が分からなすぎるので調べると、「祭屋台の像”皇孫勝”が完成した旨の報告文」だという。皇孫勝(公孫勝)は水滸伝に出てくる道士で変な術を使うヤツらしい。

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五七桐の紋があしらわれている。これは内閣総理大臣の紋章でもあり、現在の日本国政府の紋章として使われているもの。歴史上大切な紋章で、室町時代室町幕府が貨幣に刻印して以降、天皇から賜った「政権担当者を示す紋章」とされているみたい。一応豊臣政権まで菊のご紋に次ぐ格式の紋として使われていた。江戸時代に徳川家が使用制限しなかったために菊のご紋と同様、自由使用となって庶民の間で流行ったみたい。その後、明治時代に入り「政権担当者=政府を示す紋章」として格式が復活した。

 

ただ、このお寺に桐の紋章があるのはこの人↓の菩提寺でもあるからと思われる。

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豊臣氏の家紋が五七桐で、この人豊臣姓を下賜されて公的文書での名前が「豊臣正則」だそうだから、桐紋も使ってるんじゃないかな。

 

福島正則公霊廟がある。標柱の側面には、

広島49万石より信越4万5千石に流され居ること6年、寛永元(1624)年歿す

と書かれていた。

負けたくないな負けるの嫌だな、と思わせる一文ね。

 

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本堂の裏。なんかあるよ。

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ここにも石垣が。

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本堂より高い位置にある。

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小布施は福島正則推しなのか? なんの関係の幟なのかと思ったら、福島正則の野外劇やった名残りみたい。

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霊廟は立派だった。

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その辺の墓地とは違うぞ。格式高い墓地。

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先ほどの雁田城に向かう登山道もあったよ。墓地へのスロープも兼ねているのかな。折角だからこちらの道を下ってみる。

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なんかの石碑あった。

高井鴻山の顕彰碑らしい。碑文の内容を記した説明板もあったが、文章が長くて長くて…頭に入ってこなかったよ。公爵徳川家達が揮毫、文学博士三島毅が撰文ぐらい読まなかった。

 

三島毅は幕末から大正にかけて活躍した漢学者で、松山藩の藩校の教授→東京帝国大学の教授→東宮御用掛(東宮の家庭教師)を歴任した凄い人らしい。

公爵徳川家達は徳川宗家の第16代当主。徳川家達の母親は高井武子(生家は津田氏で津田梅子の伯母)というそうだけど、ひょっとして高井鴻山と関係があるのだろうか?  単に母方の姓と同じだね☆ってだけで揮毫してくれたのかな(徳川家達の生家の田安家の家臣に高井氏がおり、高井氏は田安徳川家が創設された際に召し抱えられた家柄らしい)? 太っ腹なのかな? そもそも高井鴻山って本名「市村健」ってwikiに書いてあったわ(石碑の横の石柱には「贈従五位 高井健」の文字が)。

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↑何一つ頭に入らなかった文章

 

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↑こちらは本堂落成記念?(読めなかった)

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山門の近くまで下りてきた。

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湧き水がある様子。

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案内板には、

  • 弁天池清水
    この池の水は雁田山の沢に集まった水が崩壊した溶岩岩塊の中を通り抜けて湧き出してきたもの
    中性で鉄分を含まない
    お茶の水としては最高で、旨味を倍加する
    珪酸の微粒子を含むので白濁しているが、逆に胃腸の健康維持には良い
    まさに霊泉だ

とあった。わりと水量少なめ。持ち帰っている人もいないのでは…? という雰囲気ではある。

 

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夕方に近かったが、疎らに人影はあった。そしてタクシーで乗り付けてきた、慌てた風の若者に「ここって天井絵ありますよね? まだ見られます?」などと話しかけられた。本堂に券売機あったけど…? って言っただけで若者は風のように走り去っていった。あの人、鳳凰と目が合うといいね! と思いつつ帰途についた。

 

 

★★★★☆

「49万石から4万5千石に減らされた流人」という短文が一番心に響いた

 

 

<岩松院館>

築城年 不明

築城主 荻野常倫?