お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

常楽寺

天台宗の別格本山だそうだ。格式が高い。

 

北向観音堂と同じ、天長2(825)年に創建。何度も再建され、現在の本堂は江戸時代中期・享保年間(1716~1736)の建築と言われている。御本尊は(多分)阿弥陀如来。正式には「妙観察智阿弥陀如来」というそうで、どんな仏様なのかなー? と調べてみたけど阿弥陀如来の話しか出てこなかったから。「妙観察智」とは仏教用語で、客観的に物事を見るとかいう意味のようだ。

五智(法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智)という密教智慧(物事をありのままに把握し、そこから真理を見極める力?)があり、そのうち妙観察智を司る仏が阿弥陀如来という関係のようだった。

正直、何の話なのかサッパリだわ。

 

御本尊・阿弥陀如来像には「享保十年」という文字が残されていると説明板にあった。

階段の向こう、見えているのが本堂のようだ。

格式が高いわりには、非常に素朴と思った。鄙びた印象のお寺さんだが、屋根が丸っこい。葺くの、難易度高そう。

本堂にお参りした後、裏手にある北向観音が出現したという場所を目指した。

六地蔵がいらっしゃる。

 

 

石仏はたくさん奉納されていた。六地蔵は新しめに思えたが、他の石仏は古いモノが多そうだ。

どんどん奥へ進む。

中国仏教協会会長の趙樸初さんという人の詩碑。中国の仏教指導者・政治家だという。

 

古そうな供養塔が建ち並んでいる。僧侶の墓だと思う。参道両脇にお墓というのは、今まで経験したことがないかもしれない。無縁仏と思われる石塔もたくさん残されていた。この場所が心の拠り所だったり、非常に大事にされていたことが分かる。

奥のフェンスの向こう側にある多宝塔が目指す場所である。こちらの石造多宝塔は国の重要文化財に指定されている。

よく見かけるような気がするが、古いから重文指定? と思ったら違うらしい。石造りの多宝塔で残っているものが少ないからだそうだ。どうやら、私がよく見かける石造りの塔は宝篋印塔というものらしい。

 

↑これが構造図

 

傍らの説明板には、

  • 天長2(825)年、炎に包まれた北向観音がこの場所に出現
  • 初め木造の宝塔を建立したが、寿永年間(1182~1184)に焼失
  • 弘長2(1262)年、現在の宝塔を建立した、この時に金銀泥(金銀を泥状にしたもの)で書いた一切経(仏教経典)の一部を奉納した
  • 石造りの宝塔は全国的にも少なく、特に重要文化財となればこちらを含めて二基(もう一つは滋賀県の少菩提寺
  • 本塔は鎌倉時代の典型的な多宝塔の様式である

とあった。

 

滋賀県の少菩提寺は既に廃寺となっている。

聖武天皇の勅願により、天平3(731)年に建立されたお寺さんである。元亀元(1570)年に戦火に遭い、そのまま復興されなかった。少菩提寺には焼け残った多くの石仏も残されているらしい。

説明板にある少菩提寺の石造りの宝塔はこちらの塔(3m弱)より大きく、高さが4m以上あるようだ。宝塔に「仁治2(1241)年」の銘があり、常楽寺の塔より20年程早く造られているようだ。

鎌倉時代は石造りのものが流行した印象がある。

 

宝塔の左右に置かれた石塔は後付けだそうだ。

大正13(1924)年に近く(北向観音堂・長楽寺の西側山麓かな?と思った)で水道工事をしていたら、地中からたくさんの多宝塔・五輪塔・宝篋印塔などがバラバラの状態で地中から見つかったそうで。石塔の遺物は残されなかったが、地元の人が行方を捜し続け、関西にあることが分かった。持ち主に懇願し昭和56(1981)年に地元に戻り再建された。もちろんこの塔も鎌倉時代のものらしい。五輪塔はお墓のイメージだし、その他の塔も多分供養塔。その水道工事した場所って旧墓地だったのかな?

 

 

★★★☆☆

ちょっとした美術館もあって、落ち着く場所だった。

 

 

常楽寺

創建年 天長2(825)年

開基 慈覚大師

北向観音堂

北向観音善光寺とセットで語られている。善光寺は南向きで北向観音堂はその名前の通り北向きで、向かい合っているかららしい。善光寺は来世にご利益があり、北向観音は現世にご利益があるからとか、なんかゴチャゴチャ書いてあったけど、そもそものキッカケは分からない。結局「昔からそうだから」というふわっとした話だと思われた。

 

善光寺が現在地に建てられたのが皇極天皇元(642)年、北向観音堂の創建が天長2(825)年で、延暦寺のお坊さんが常楽寺含めた3つのお寺(三楽寺)と共に建立したそうだ。常楽寺が管理している。天長2年に常楽寺の裏手の山が大変揺れ、地面が裂けて被害が出たそうで、これを沈める為に第三代天台座主延暦寺の三代目貫首)の慈覚大師(円仁)が護摩を焚いたら観世音菩薩が現れて、この観世音を祀った所が北向観音堂である。観世音菩薩が現れたわりには御本尊が千手観音とある。千手観音は観世音菩薩が変化したものなので同じ神様だそうだ。

観世音菩薩が現れた場所は常楽寺の境内にある。そのため常楽寺が本坊となる。

 

御開帳期間中に「善光寺」とつくお寺さんに(多少のタイムラグがあるけど)お参り済み。

よしこれで片参りにならないはずだ!

 

元々、北向観音堂を管理していたお寺(長楽寺)は元和7(1694)年に燃えた後再建されず廃寺。跡地は旅館が建っているようだ。

両脇の柱には「普門示現」「龍作依怙」とある。

普門示現=観音様は人々を救うために色々な姿で現れる(有名な仏教用語らしい)、は分かったよ。「龍作依怙」は観音様を頼って欲しいな、みたいな意味かしら?

石段を下りると、川だった。

湯川という川かしら? この川の周りは温泉いっぱい湧くんだという。河床がワイルド。長い年月をかけて切り刻まれている感じ。

川と仲見世の先はまた石段。

これは苧環さんですかね。

このお手水は温泉水だった。飲用可。でもちょっと私は無理だった。糖尿病と高コレステロール血症に効果あるようだ。

戦捷紀念(戦勝記念)ということで、このお手水を作ったらしい。大正~戦前辺りの、こういう遺物は絶対見ちゃう。疚しいわけでもないのに背徳感があるというか、ドキドキしちゃうわ。

本殿。

お参りをする。某有名歌手の寄進があったようで、大きく名前の書かれた提灯があった。

奉納された絵を見たかったのよね(飾ってあるって聞いてきたのよ)。

この絵だよ。

 

外へ出た。

樹齢1200年の木で、現れた観音様が宿った霊木であるそうだ。愛染桂という名称だそうで、傍らの愛染明王堂とこの桂の木から恋愛小説(死別シンママと病院経営の金持ち御曹司との恋愛モノのようだ)が生まれたので、そのタイトルから取ったらしい。それ以前は名前もなかったそうだ。あらら霊木なのに…。


傍らの「愛染明王堂」はどこだろうと思い、周囲を探した。

一番近くにあったのが、不動堂。不動明王だよね…?


結局愛染明王堂は、お手水の近くにあったお堂だった。

ちょっと離れてる! 愛染かつらって語呂がいいからかなー? と思った。


薬師堂もある。うひょー懸崖造りだよ。温泉薬師瑠璃殿という名称らしい。薬師如来薬師瑠璃光如来ともいうそうで、薬師如来の住む世界(浄土)を瑠璃光浄土という。有名な極楽浄土は阿弥陀如来の住む西にある世界で、瑠璃光浄土は東にあるそうだ。

浄土といえばこの二つしか知らなかったので、グーグル先生に聞いてみた。他は聖観音補陀落浄土とかあるらしい。仏様毎に浄土(世界)があるそうなので「○○浄土」はいっぱいあるようだ。

 

ちなみに、北向観音常楽寺の紋が笹竜胆(デザインあのせいで家紋に詳しくなった。家紋を描くコーナーだけ復活してほしい)なのは源頼朝が再興したからだそうだ。彼は善光寺も再興している。

昭和36(1961)年に本殿が撞木造りに改築され、善光寺とお揃いになったそうだ。

なんか石碑がたくさん建てられている。

 

玉垣

七久里橋は架け替え工事中でした。

神社の裏手に行くと。

なんと、この裏手では善光寺とセットでお参りする謂れが分かったよ。
北向観音堂で厄除け札をいただいてから善光寺の御開帳に行ったらM7クラスの大地震(弘化4(1847)年の善光寺地震)に遭ったものの、無事だった。という内容の絵馬が奉納されているという。私はその絵馬、どれだか分からなかったよ!


そんな善光寺地震から6年後、

その後何年もM7クラスの地震が続いていくつも続いており、この世の終わり的な奴がきた雰囲気だったんじゃないかなー? 私も東日本大震災から10年以上たっても、未だに地震アラート鳴ると緊張するもの。

こんなに大地震が頻発してたら、革命も起したくなりますわな…と思った。

 

明治12年頃には地震も落ち着いていた様子。良かったね。

 

★★★★★

家族連れでちょうどいい感じ

北向観音堂>

天長2(825)年?

 

 

 

 

月1くらいで1人で出かけて、美味いもの食べないと生きていけない気がする。肉が柔らかかった。年取ったせいなのか、もう1人にしてほしい衝動に駆られまくってる。

このお店、たくさんのマダム達で賑わっていたよ。

上条御屋敷

謎の上条屋敷に来たよ。

 

大昔、「信濃国水内郡丸栗庄」という荘園があったらしく、そこの領主館だった御様子。旧中条村に丸栗神社があるそうで、丸栗庄の中心地はそっちだった? と思いきや。wikiには長野市七二会? と書かれていたりする。門跡寺院仁和寺領だったそうだ。

長野縣町村誌の「七二会村」には、

  • 笹平村、岩草村、大安寺村が丸栗庄だった
  • 本村は古時、太田郷に属す

とあった。ので、中条村及び丸栗神社がある日下野の項を見てみると。古い時代の話は「不明」になっていた。どうやら丸栗庄は上条(信岡村)・中条・下条(日下野)という地区に分かれており、日下野の隣の村が七二会だったようだ。ちなみに信岡村(信州新町)と中条、日下野は山の中に点在する集落を合併、どんどん大きくなっていき現在は長野市に吸収されている。長野縣町村誌だと、この辺の村は大体「古時不明」になっており、村の沿革は戦国時代以降がほぼだった。

 

丸栗庄の上条地区中心地であった旧信岡村の項では、

  • 中世、牧之島城主香坂氏の代々の領地である
  • 香坂氏は村上氏の配下
  • 応仁2年、小川の古山城主だった小川貞綱が村上顯國(顕国?)の命に従わず、村上配下の香坂氏と大日方長利などが古山城を攻めて小川貞綱が戦死した
  • 口伝では、牧之島城から香坂某が移り住んで来たそう
  • 源真寺には大永7年に亡くなった香坂範利の位牌がある
  • 領主は間違いなく香坂氏であるが、子孫の事績は不明

と書かれていた。

香坂さん自体はずっと存続していたようだ。wikiによれば、

  1. 武田家滅亡後、香坂氏は織田家(森さんの配下)→上杉家に仕えた
  2. かつての本拠地・牧野島に近い場所に所領を安堵される
  3. スパイ行為の咎で上杉家により香坂氏が滅ぼされる(ここまで度々香坂家は滅ぼされては復興されている)
  4. 分家?は上杉家臣として会津にお引っ越しして、幕末まで存続

とあった。牧之島近辺で安堵された領地って上条地区とかかなー?

 

ちなみに、「古山城(信濃国)」と小川氏は、

  • 南北朝時代末期の1392年に三河を追放された小川貞綱が小川庄に引っ越してきて、古山城を築城した
  • 以後、小川庄は小川氏の領地となる
  • 戦国時代、小川氏は村上氏の配下であった
  • 永正2(1505)年、村上氏に背いたため、村上さん家来の香坂忠宗と大日方長利(小笠原氏の出身で、一時は小笠原宗家の後継者となったがお家騒動で失脚し生坂村に移住。後見人は香坂忠宗だった)に攻められたために祖国の三河へ亡命
  • 三河では姓を小川から「水野」に改める→徳川家康の母方実家の水野氏であるという伝承あり

水野氏の項目には、

とあり、信濃国にいた小川氏の伝承と多少重なるが、その後の続きでは小河氏(水野氏)は愛知県から出ていない感じの記述だった。当然、古山城主小川氏の話は一切なし。

長野縣町村誌「小川村」にも、三河から来た小川氏の話はなく。そもそも小川村の項には違うことが書いてあった。

  • 継体天皇の子、兎皇子の子孫である酒人公が真人の姓を賜る
  • その子孫である酒人小川真人(さかびとのおかわのまひと、と読むそうだ)が都より下向し、小川を開墾した

とあり、小川村小根山にある小川神社(式内社小川神社と言われている。ただし、小川神社の論社は3つある)の縁起にも似たような内容のことが書かれていた。

「真人」姓は天智天皇13年に継体天皇以降に即位した天皇の子孫に当たる貴族に対して与えられた。八色の姓のうち最高位である。真人(皇族)・朝臣壬申の乱で功績があった氏族)・宿禰(神別氏族)・忌寸(国造系豪族や渡来系氏族)・道師(授与例なし)・臣(地方豪族)・連(地方豪族)・稲置(授与例なし)と八段階あった。身分を表す称号みたいなもの?

それ以前の姓はもっと種類が多く(30種類ほどあったらしい)、天智天皇13年に改めた姓で、「公」の姓を持っていた皇族身分の人々が「真人」姓をもらったようだ。ただ「真人」姓は皇族向けにも関わらず懲罰的な授与例が相次いだため、第二位の朝臣姓を望む者が増加し、最終的には朝臣だらけになった、と説明されていた。「真人」姓の一族は都での出世がなくなったので、都落ちしてきちゃったのかな?

 

酒人小川真人という人の話は三河国にもあり、「神明社・小川天神社」という旧郷社格の古い神社が安城市にあるそうで。こちらは三河国碧海郡小川郷に属している。お名前の通り、現在は神明社と小川天神を祀る小川天神社が合祀されている。このうちの小川天神社の御祭神が小川天神で、継体天皇の子の兎皇子を祀っているとされている(この地を領していた小川氏の祖先で、当地で流行した疫病を鎮めるため先祖の兎皇子を祀った)。

 

信濃国式内社・小川神社には論社が3つある。小川村小根山にある(小根山)小川神社、小川村瀬戸川にある(澤の宮)小川神社、小川村高府にある武部八幡宮(小川八幡宮)。

 

このうち小根山小川神社(里宮)と澤の宮小川神社(奥宮)は一体の神社であると考えられ、御祭神はどちらも健御名方神健御名方神信濃を開拓し、本人の母の故郷である糸魚川に向かう道(糸魚川街道)の要衝に健御名方神を祀る社を建てたとあった。今年御柱やってたようだ。小根山小川神社の背後の山には酒人小川真人の一族が拠点とした小川古山城がある。

 

武部八幡宮は成り立ちが違う。まず、日本武尊東征の副官として吉備武彦という人が高府に立ち寄った。日本武尊薨去後にその威徳を広めるために各地に縁者を送られた。高府には稲依別王の一族がきて、日本武尊を祀ったのが始まりらしい。その子孫が武部氏となった。神護景雲2年に全国でいいことをしたと褒賞された一般人9名の中に親孝行で建部大垣さんという人が選ばれており、彼は稲依別王の子孫とされる。更級郡の人としか記されていないが、現在の信州新町在住だったのでは? と言われている。その後、貞観8年に石清水八幡宮から勧請して誉田別神も祀っている。

 

小川神社の論社たちが、伝承として三河国碧海郡の小川刈谷城主の小川貞綱が元中9年南朝を支持したという理由で信濃に追放され、当地を支配したと言っていた。刈谷城徳川家康の母於大の方松平広忠と離婚後に住んでいたところである。水野氏の拠点は尾張国知多郡小河にあった緒川城らしい。

っていうロマン溢れる内容だった。古代から続く一族なのか。長野の小川村って山中の小さい集落ってイメージなんだけど、大昔から有名な人が移住するような場所なのか。

 

よそ様のお宅の前の道を通る。

何かがあった。

石碑・柱?・祠だ。

香坂○跡。○に入る字がなんだろう? 城?

屋敷跡を示すものはこれだけ。規模とか年代とか、詳しい内容は一切なし。入り口の立て看板のみだよ。

 

入り口も見逃しそうな感じだし。

おそらく屋敷跡。畑となっている。

 

上からだとこんな様子らしい。原形留めているのかどうかも分からないぞ。古い地図だと、この近くを通る道は明治には存在している道のようだ。峠を越えて隣村(水内村)へ向かう。旧水内村に入ると日影という地区になるが、ここに香坂塚という史跡があるそうだ。

長野縣町村誌「水内村」には、

武田氏の兵が上条の城を襲い、城主香坂某は防戦したが家臣と共に日影まで逃れて、自刃した。里人が彼らを埋葬し塚を築いた。

と書かれていた。

ストビューで香坂塚探して見たけど、ちょっと分からなかった。そもそも香坂塚という史跡の情報が無い。お寺や神社、城もあるし栄えていた地域なのに現代に残された情報少なめですよ。

館址ですよって言われないと誰も分からない感じよ。

畑の奥、山裾に何か石碑らしきものが見えるけど、そこまで侵入出来そうにない。

畦道。

何かありそうな山に見えるけど、この先に何かあるという話も全くなし。

伝承がないだけで、ひょっとしたら何かあるのかもしれない…。

でっかい毛虫いた。

 

 

 

★☆☆☆☆

居づらい場所だった。

 

 

<上条御屋敷>

築城年 不明

築城主 香坂氏

 

ローストビーフ丼専門店。この日は行こうと思っていた飲食店がすべてお休み(または日替りメニューの内容が好みじゃない)という日だった。が、ローストビーフ丼は美味しかった。

 

安楽寺

安楽寺へ行きました。

大正12年に建てられた石標らしい。左は安楽寺青木村方面。

右は、

別所神社と常楽寺へ。

傍らの黒門には「崇福山」という扁額が掲げられていた。安楽寺の山門である。この先から安楽寺の境内となり、門は寛政4(1792)年に建てられたそうだ。

古そうな常夜灯もあるし、この先にポップなのもあった。

ハート柄のラブリーな奴だよ。ピンク色に塗りたくりたい。

蓮池があった。

ここから上るよ。

広い。

安楽寺は天長年間(824~834)に開かれたと伝わる寺院だけど、鎌倉時代以前の記録が乏しいらしい。

しかし古いお寺さんであることは確かである。

なんか古そうな感じするから。

千社札ベタベタ貼ってあるよ。

安永年間(1772~1781)頃、天愚孔平(本名:萩野信敏)という変わり者の寺社仏閣マニアがおり、

  1. お参りしては記念に落書きする
  2. 落書きするのが面倒になる
  3. そこで自分の名前をB5くらいの紙に大量印刷して貼ることにした
  4. 名前を貼ることが江戸でブームになる
  5. 皆で真似して寺社に札を貼ってしまう
  6. 寛政11(1799)年、町奉行により禁止令が出されるが守られず…

文化14(1817)年に亡くなった天愚孔平さんは千社札開発者として名を残した。

 

千社札の大きさも一応決まったサイズがあるそうで、B5よりずっと小さいもので落ち着いたらしい。高いところへハシゴをかけて貼っていたのかと思っていたら、実は竿の先に札をつけて貼っていたそうだ。この札は「参籠と同じ功徳がある」という民間信仰があって、寺社仏閣側の許可と御朱印を戴いた後で貼ることが出来たそうだ。今はもうどこでも許可されないだろうねえ。

古くて格式高いお寺さんらしく、お庭が非常に綺麗。手入れが行き届いている。

鐘楼。

安楽寺の本堂。

長野縣町村誌によれば、

  • 天平年間(729~749)に行基が建立した(一説には天長年間(824~834)の建立)
  • 安和年間(968~970)、平惟茂が戸隠山で鬼退治した後に別所山に至り、八角四重塔と三楽寺四院を建立
  • 養和年間(1181)、木曽義仲が横田河原の戦ったとき兵火にかかり、燃えてしまったが八角四重塔だけ残った
  • ただし、上記の内容は寺伝で伝わる内容である(定かではない)

続いて、

  • 鎌倉の建長寺で受戒している樵谷惟仙が中興の祖で臨済宗に改まった
  • 樵谷惟仙は宋へ留学、弘安元(1278)年帰国(建長寺開山の蘭渓道隆も同じ船にいたらしい)
  • 正応元(1288)年、北条貞時が堂宇を再建する
  • その後また荒廃してしまい、正安元(1299)年に北条貞時がもう一度再建する
  • 第二代の住職である幼牛恵仁は樵谷惟仙が留学中、一緒に学んだ法弟である
  • 樵谷惟仙が帰国した際、一緒に連れてきた
  • 樵谷惟仙が亡くなった後、幼牛和尚が跡を継いだ
  • 樵谷惟仙・幼牛恵仁のそれぞれの木像には嘉暦4(1329)年という年号があった
  • その後、また火災で堂宇が燃えてしまったが、塔だけ残った
  • 天正8年(1580)に高井郡の興国寺(須坂市臥竜公園の隣にある寺)から住職が来て、曹洞宗に改まった

 

樵谷惟仙さんが実質的な開山のようだ。

wikiによると、この方は生没年不明になっているものの寛元4(1246)年に宋から帰国しているというので、鎌倉時代中期くらいの人らしい。外国留学をしているぐらいだから物凄く優秀な方だったらしくて、ここに信濃国最古の禅寺を作ったそうだ。元々が信濃国出身(木曽義仲の縁者とか?)で最初は隣の寺(常楽寺)で修行したという縁。二代目の住職は宋出身の人。

本堂へお参りした後、国宝の塔を見に行った。このお寺さんの塔は長野県初の国宝指定された凄いもの。

 

簡単な説明文があった。

蘭渓道隆の文章、ちょっと難しくて分からなかったけど、多分「建長寺安楽寺は一心同体みたいなモノだから皆で仲良く学んで盛り立てていってね」とかそんな感じなのかな?

建長寺鎌倉五山のトップだった。

臨済宗は宗派が15派もあって、それぞれ本山があってややこしい感じ。建長寺は北条氏の独裁政治が確立した時期に、北条氏によって建てられた寺院だという。だから、鎌倉で一番権威ある寺院。そんな寺院と肩を並べる安楽寺は偉い、ということのようだ。

まずは経蔵。文字通りお経を収納している建物。

ここから上っていく。

池があった。

錦鯉いるよ。

この日は非常に天気が良く、平日にも関わらず観光客が多く居た。善光寺御開帳のせいなのか大河ドラマの影響もあるのかしら(結局毎週見てる…今の時代の地上波ドラマであれだけ登場人物ガンガン殺されていくの他にないからいい。仲間とか絆とかゲロ吐きそうなヘンな思想もないしさ)。

木々の向こうに建物が見えた。あれが国宝か。不揃いな六地蔵もいらっしゃる。

島木赤彦という人の歌碑みたい。大正12年、別所温泉に来詠んだ詠んだ歌だという。この人は旧諏訪藩士で明治時代は教員やってたという父を持ち、本人も長じて教師となり僅か33歳で尋常小学校長に上り詰めたアララギ派歌人だそうだ。なんか聞いたことあるから有名なんだろう(この人の歌碑、他でも見たわ)。

歌碑の内容は、古い像(樵谷惟仙さんと幼牛恵仁さんの木像二体)を見たよ、ということで。

塔までのゆるゆると上る道の途中に傳法堂という建物があった。短歌に出てくる木像はこちらに納められている。

どちらも嘉暦4(1329)年に彫られた古い像。国の重要文化財である。傍らの説明板には没後に弟子達が作らせた、とあった。

建物の左隣には水子地蔵と北条氏の家紋、そして裏の高台には三重塔。

建物の右隣は、ひっそりと祠が並んでいた。

歴代の住職のお墓かもしれない?

さて目指す塔が近づいてきている。
ちなみに塔の周りは墓地が広がっている。安楽寺の檀家さんたちのお墓。

正式名称は、安楽寺八角三重塔というそうだ。

第一印象は、茸を裏から見たとき、だった。恐らく屋根が八角形だからだ。日本には現在木造の八角塔がココしかない。大体は屋根が四角形。円に近いから茸の傘に見えてしまったのか、なんという不敬だろう。

ぱっと見、四重塔に見えるが、一番下の屋根は「裳階」という見解となっている。屋根は上の写真にある3つだけということになっている。裳階は風雨を避けるための庇(本来の屋根だけでは小さすぎて雨など防げない)、屋根らしきものをたくさん付けると立派に見えるという飾りの意味、裳階は外回廊の役目も兼ねることが出来るのでその分部屋の広さを確保出来る、などと色々な理由で付けられているそうだ。

裳階がある塔は、世界最古の木造建造物である法隆寺金堂と五重塔(いずれも7世紀)、薬師寺東塔(天平年間、729~749)など古い時代から存在する。よくある装飾なんだろうな。

建てられた時期については、塩田北条氏がいた建治3(1277)~元弘3(1333)年の間が定説となっているらしい。塔は本来、仏舎利(お釈迦様の遺骨、または遺物と見立てた宝石や経典)を安置するためのものだったが、中世になると死者の供養のために建てられる事が多くなり、この八角三重塔も供養塔ではないかとされる。時代的には元寇の頃だしな。

宋(南宋)から僧が来日し、また南宋も滅亡(1279年)したので、意外と亡命してきた僧以外の宋人(建築技術者とか)は多いのかもしれないなと思うぐらい、中国っぽい建物のようだ。禅宗様(唐様)という様式だそうで、鎌倉時代初期から徐々に日本へ技術が渡ってきたそうな。

八角塔は安楽寺以外にも建てられた(京都や奈良)が、他はすべて失われてしまった。特に京都の法勝寺(現在の京都市動物園内の観覧車付近)にあった八角九重塔が有名らしく。こちらは白河院が承保3(1076)年に建立した壮大な寺院で、白河院の権力の象徴だったそう。当時「国王の氏寺」とか呼ばれたらしい。永保3(1083)年に落成した八角九重塔は高さ約80mというデカさ。

完成以来、デカすぎて地震などの自然災害の被害を受けまくっていたが、承元2(1208)年落雷によりトドメを刺されたようだ。その5年後に再建。康永元(1342)年、再び焼失。再建されず。法勝寺も応仁の乱(応仁元(1467)年~文明9(1477)年)前後に度々焼失、荒廃し、いつの間にか廃寺に。京都市街地のお寺さんは「寛永頃、徳川家により再建された」という印象だけど、再建されずに消えたお寺さんも相当数ありそう。

 

この八角三重塔の説明板には、「三重塔は仰いでお参りすることが大切です。山の上から眺めおろすものではありません」とハッキリ書かれていた。えっ上から見た方が綺麗なのかなと思うけど、それは違うのか…。まあ、檀家さんたちの墓地が塔の周りに広がっているので、墓地の方へは行かない(←明記してあった)ようにさせるためかもしれないけど。

周りは山で木々が覆い繁っている。木々の間に避雷針らしきものが伸びていた。ひっそりと国宝を守っている。

八角三重塔の案内板には、

  • 中国から伝わった「禅宗様」で作られた、現存する国内唯一の八角三重塔
  • 長野県内では「国宝第一号」
  • 禅宗寺院にもかかわらず、内部には大日如来が安置されている
  • 太陽信仰と関わりがある?
  • 創建は1290年代

とあった。

「塔」はお釈迦様の遺骨(仏舎利)を納めるためのものなので、内部に階段がないそうだ。そういえば以前、薬師寺の特別拝観で塔の扉を開けて内部を公開していたので見せて貰ったことがある。確か、平城京とかせんとくんで盛り上がってた頃。内部はがらんどうとしており、階段とかなかった。それまでは螺旋階段かなにかあって、最上階まで登れると思ってた…。(薬師寺の特別拝観期間に西塔初層の拝観が出来た。平成27(2015)年には昔安置されていたであろう塑像がいくつか新たに再現され安置されたそうだ。私が拝観したときには多分なかった)

格子窓のように見えるアレは換気口なのかな?

 

安楽寺の御本尊は釈迦如来だそう。大日如来密教の御本尊でもあり、太陽神とされる。うちの宗派は禅宗じゃないから詳しくないけど、大日如来はすべての仏を生み出した存在とされ、釈迦如来大日如来から生まれたらしい。曼荼羅の真ん中にいる仏様が大日如来だそうだ。ちなみにうちの宗派は浄土宗で、浄土宗も曹洞宗大日如来についてあまり言及していないそう。まあ浄土宗は阿弥陀如来の話しかしない気がする。

 

ここが塔の入り口だよ。

 

下ります。

経堂まで戻った。

 

ここ1年ほど御朱印集めに手を出してしまい、なんとなく集めている。

世の中の人は御朱印帳に直接書いて貰うのが一般的みたいだけど、私は凝った綺麗な紙に墨書きされている書き置きを集めたい人。しかし美しい書き置きを用意されている寺社仏閣は多くない。やっぱり書いて貰う方が徳を積めるのだろうか? でも限定書き置きの方が気になるのよね。

御朱印帳も諏訪・稲荷・伊勢など、御祭神毎に御帳面を分けた方が良いのか、習合しちゃってる神仏も多いが神社とお寺を分けたりするのが正しいのか、特定の神社を管理する為に建てられた神宮寺はお寺なのか神社なのか、色々考えるともう分からなくなっちゃうんだよね。昔の人はどうしていたんだろうか? 家族には「お守りだっていくつも持ち歩いている人いるんだし、神様も仏様もみんな一緒でも気にされないのではないだろうか?」と言われた。そっかー納得した。

古い扉だ。

筍生えていた。

 

★★★★★

国宝の八角三重塔もいいけど、よく手入れされた庭園や三重塔へ向かう道が良かった

 

常楽寺

創建年 不明

 

 

 

青木村の道の駅でお蕎麦食べたよ。自分にそばアレルギーの疑いを持っているので滅多に食べない。1年ぶりのそばは大変美味しかった。

道の駅では御城印がたくさん売っていた。世間的には少々目立たないような染屋城とか岡城とかあれば、松本城とか弘前城も何故かあった。ああこれは「定期的に通って集めろ」という宇宙から飛んできた電波のメッセージかも!

 

北条氏のお寺に行ったから、塩田城の御城印を買った。

塩田城の本郭、木漏れ日が差していてとても居心地の良い場所だったなー。安楽寺の三重塔の所に書いてあった「北条氏の太陽信仰云々」は塩田城にも何かしらあったのかなー? と思った。

牧之島城

牧之島城に来た。GWなので!

誰もいなかったー!

駐車場は「丸馬出し」の部分を利用しているようだ。

駐車場の土塁↓

土塁の向こう側に堀があるようだ。

土塁の裏側は武田さんのお城にありがちな三日月堀。なんとなく水も残っている雰囲気。ぱっと見、草原?みたいだけどさ。

季節が悪いのか、グーグルさんだとこんなんだったわ↑

丸馬出しとお城本体の間にもお堀があって。

橋は壊れそう?

自転車はともかく、馬で入っちゃう人いるのかな???

お城の入り口は三日月堀と丸馬出があることから、ここだと思うが。残念、侵入出来ず。

 

丸馬出しのすぐ真横を道路が通る。道路の反対側には民家が並んでいる。現在の道路は新道らしい。

旧道はグーグルカーも通らない細い道。

三日月堀に近づかないよう、住宅の間を縫うように曲がり、空堀の手前で合流している。

牧之島城は高台にあり、近くには高校や住宅がある。

設置された案内板には、

  • 南・西・北を犀川がめぐり、東は山に続いている(小花見高原に向かう)、舌状台地の上にあり、自然の断崖絶壁と深沢を利用した城
  • 「千曲之真砂」では、<甲州流兵学の最も優れた城で、大量の兵が籠もっても狭くないし、少量の兵で守っても広すぎない>的に賞賛されている

とあった。

続いて長野県の文化財調査報告に触れており、

  • 本丸東側に「千人升」と称する枡形がある
  • 千人升から堀を渡った先には丸馬出し(現:駐車場)があり、そこにも三日月形の堀と土塁がある
  • 丸馬出しの更に東側(小花見高原方面)に大手口があった、大手口からさらに東へは屋敷割(城下町)が続く(↓東側はこのような感じ)

 

  • 屋敷割の先には東西に走る深い堀がある

 

深い堀はこの辺り↑のようだが、切り通しのような箇所の先に堀があるっぽい。

お城はそんなに大きくない。

橋が通行止めの現在、お城の入り口には神社があった。

お稲荷さんらしい。琵琶古跡神社という名前で、牧之島城を別名琵琶城と呼んだ為に、名付けられたのだろうか。古い時代この辺りを牧郷琵琶ノ里と呼んだらしい。

元々は香坂さんという滋野氏の末裔で、東信から移り住んで来た人々のようだ。wikiによると、承久3(1221)年の承久の乱で北条方として戦い、敗れた後鳥羽上皇方の土地(牧郷)を恩賞としてもらいこちらへ引っ越してきたらしい。牧郷の範囲は恐らく、明治22(1889)年~昭和31(1956)年に存在していた旧牧郷村と同じかなと思われる。

 

牧郷の中心だった牧城はこちらにあったようだ↓

 

入り口の石柱には堂々と「香坂牧城跡」と彫られている。普光寺というお寺さん。こちらは牧之島城下の屋敷割の東の外れにあり、立ち位置的には城下町の東を守っている。

 

長野縣町村誌によると、

  • 普光寺の創建年は不明
  • 築城年不明の古城跡(香坂氏代々の居城)には後に正明寺が建立されたが、明治8(1875)年廃寺となる
  • 香坂氏は村上氏の配下となり、天文22(1553)年に武田信玄と上田原と戦った。村上義清は武田に敗れて越後に去った後、香坂氏は武田に降る
  • 永禄4(1561)年、香坂氏嫡流は武田氏に滅ぼされてしまい、牧城も廃城

とあった。永禄4(1561)年で香坂氏の嫡流は途絶えたが、婿養子が入りおうちを継いでいる。私は腐った人間だからか、何故かその婿養子のことを知っていたよ。

長野縣町村誌としては「普光寺=牧城」ではないという。長野市文化財データベースの地図では普光寺の駐車場になっている辺りを牧城として紹介していた。正明寺のあった場所は「村の子のほうにあり」と書いてあり、普光寺は「村の午のほうにあり」だった。実は二つの寺院、お隣同士だったのかも(JAの加工所付近が怪しい)。

 

ちなみに牧之島城については、

とあったので、武田が香坂氏の領地を召し上げた後に造ったお城だということのようだ。

  • 馬場信房、150騎で牧之島城を守った
  • 天正3(1575)年馬場信房戦死
  • 天正10(1582)年には武田氏が滅んで織田信長の城になり、海津城に移った森長可が当地を治めたが、牧之島城代として誰がやってきたか不明
  • 織田信長死去のあとは上杉家の領地となり、芋川氏が城に入った
  • 慶長3(1598)年に芋川氏が上杉氏に従い、会津に去った後は誰が城主となったか不明
  • 慶長8(1603)年松平忠輝が領主だった時代には、家臣の松平甚兵衛が入る
  • 元和2(1616)年、松平忠輝の領地が没収され同時に廃城

築城から50年程で機能を失った。

入り口の石碑は来歴を示すものではなく、神社を改修したとき寄付をした方のお名前がずらずらとあるだけだった。

苔むした境内がいかにも古社という趣き。創建年不明とあるが、廃城年の元和2(1616)年以降に建てられたものだと思う。

お社の横からは奥に進む道を発見。こちらは後回しにします。

鳥居をもう一度潜った。

神社の境内は二の丸を見下ろす場所にあった。

二の丸の印象は、整備された芝グラウンドだった。

過ごしやすそうな場所だった。が、地面ぬかるんでいる。芝がぬかるみを隠し、気付くとスニーカーがグッチョリしている。恐ろしい場所じゃないか。

前日、雨だったのかな? 水捌けが良さそうに思えて、実に悪い場所だよ。長野縣町村誌には地質は中程度、(高台のため)水利は不便で旱魃の憂いあり、などと書かれていた。田には不向きとのことだが、こちらを苛つかせる程度には水分があるよ。

二の丸と本丸の間は水のある堀が横たわる。

橋で繋がれていた。


ここにも牧之島城についての説明文があった。

  • 牧之島城は永禄9(1566)年武田信玄馬場信房に築かせ、越後に対する警衛と更級・水内の山間部統治のための城である
  • 元は香坂氏の居城・牧城の一部
  • 天然の要害を利用し、新たに縄張りしたものである
  • 虎口の丸馬出、三日月堀、本丸脇の隠馬出(千人枡形)を設ける
  • 本丸の大きさは、東西31間(約56m)、南北28間(約51m)
  • 二の丸の大きさは、東西47間(約77m)、南北22間(約40m)
  • 本丸と二の丸の間を水堀で隔て、本丸北側には枡形を設けている
  • 天正10(1582)年武田氏滅亡後、上杉氏の城となる
  • 慶長3(1598)年上杉会津移封後は、海津城主の田丸直昌、森忠政らが支配した
  • 慶長8(1603)年海津城主となった松平忠輝は家臣の松平信直を在城させた
  • 元和2(1616)年の忠輝改易と共に牧之島城も廃城となる

本丸の桝形がなかなかだった。

ご立派ですよ。
土ではなく、石積みだったら観光名所になれそうな、築城の教科書通りの造りだと思った。

本丸はほぼ土塁で囲まれていた。出入り口用以外は土で高く盛られて、外部からの侵入を厳重に防いでいる。

本丸も二の丸同様、芝生の心地よさそうな場所に見えるがぬかるんでいる。歩きづらい。

背後は植栽の並木があるけど、そこは崖で落ちたら犀川ドボンする。

土塁を上る道がある。

本丸内には井戸完備だった。

本丸内には藤棚があり、もうすぐ満開になりそう。クマバチがぶんぶんしていてうるさかった。

桜の木も何本かあったが、さすがに花はなく葉を茂らせていた。

本丸北側にも通路らしきものがあり、隣の廓とつながっているようだ。

犀川に落ちないよう、植栽されている木。

なんかものすごく高そうな場所だった。

そんな訳で、土塁上がる道を辿ってみた。

土塁の上に上がった時点で、通行止めの橋が見えた。

右は何か神社っぽい何かがあった。

左のこちらは多分、琵琶古跡神社の社の脇に出る道だな。

 

橋の方へ降りてみた。

先ほどから説明板に何度も登場している千人枡がココだったようだ。

千人枡とは大きく出た感じ。この場所は100人も入れない気がする。

上にある社も見てこよう。

比較的新しいような建物に見える。祀られた方がどなたか分からなかったよ。

社からは本丸も千人枡もよく見える。

本丸に戻る。

二の丸に行きます。

水堀の向こう側は北の廓があるはずなので、ちょっと見てくる。

水堀から本丸に上がれない。土塁ある。

この先に本丸と北の廓とつながる通路がある。

北の廓の横は巨大な空堀だった。

今は道路があるけど、堀は向こうまで続いているよう。この道は高校までつながっている。明治時代の地図にも残っていたので、昔からある道らしい。

ちなみに、右側の下っていく道がメインストリートである。

また丸馬出しまで戻ってきた。



★★★★★
典型的なお城だった。


<牧之島城>
築城年 永禄9(1566)年
築城主 武田信玄馬場信房

上野の館(大倉崎城)

非常に多忙。我に返ったら桜咲いてたよ、びっくりした。

 

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なんかよく分からないけど、常盤大橋を建設しようとしたらお城跡が見つかったらしい。あまり知られていないお城だったのか、気持ちよく見事に真っ二つにされている。

 

常盤大橋は平成4(1992)年に開通しており、近所に「マチカフェ発祥の店」というローソン某店もある。このルートは国道117号線バイパスとして昭和時代から建設が進められていたようだ。バイパスが全面開通したのが平成28(2016)年。

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バイパス全面開通から5年ほどだけども、30年モノの常盤大橋の風格。道路造るって時間かかって大変よね。

 

長野縣町村誌の旧常盤村の「大倉崎城」については、

  • 東西10間(約18m)余り、南北45間(約82m)
  • 東は千曲川に接している
  • 南、西、北の三方は堀がある
  • 南側が高く、北側は低め
  • 城主も築城年代も不明
  • 噂では、外様十人衆の頃に武田方だったので追われたらしい

とあるだけだった。

現地の説明板には、

  • 中世(鎌倉~室町)の豪族居館跡
  • 当時の典型的な館
  • 東側は千曲川に接しており、北と南と西には幅10m、深さ5m以上の空堀があった
  • 堀の長さは、北34m、南42m、西104m
  • 昭和63(1988)年に常磐大橋建設の前に発掘調査された
  • 中国からの輸入品(白磁青磁)や、珠洲焼・越前焼美濃焼瀬戸焼など各地の焼き物、中国銭、鎧の一部や釘などの鉄製品、茶臼や硯など様々なものが見つかった
  • 屋敷の規模や出土品を見る限り、有力な豪族の館だと思われるが主はハッキリしない
  • 言い伝えでは「竹内源内」

とあった。

飯山は上杉方の尾崎氏とその親戚にあたる外様十人衆勢力下にあったようなので、武田方の城主は駆逐されて、跡形も無く消されてしまったのだろうか。明治時代には「誰も知らない城」になってしまって、地元の人も思い入れが無いのか荒れている。

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橋の下は何かあるようにも見える。

もう一つ、説明板があった。

  • 豪族の館址があったため、千曲川側の崖を「上野の城崖」と呼んでいる
  • 上野の城崖は水面からの高さが25m
  • 鉄道が開通する以前、千曲川は通船があり新潟から関田山脈の平丸峠などを経て運ばれてくる塩や魚などの海産物を引き揚げる拠点だった
  • 棚のように続く通路跡は風のない日に船を陸に引き上げるための施設の遺構

江戸時代にあった千曲川通船のことらしく、寛政(1790)年に西大滝村飯山市)の人が福島宿(須坂市)まで船を運航する独占権を幕府から認められたことが始まり。西大滝は信越国境に近く、ここから終点の須坂まで6~7日ほどかかったらしい。冬期は当たり前だけど運行休止。途中の飯山港とかなんかあったらしい。

この船便は貨物船で許可され、人間を乗せるの禁止だったけど。寛政11(1799)年にあった善光寺御開帳(大昔は一定間隔ではなく、善光寺の都合で開かれていた)で貨物ないしおうちに帰る人たちが難儀するかも? という通船側の好意で人間を乗せて飯山まで帰る途中、定員オーバーで沈むという事故とかあったらしい。100人以上亡くなったようだ。

 

移転したと思われるが、その当時建てられた供養碑(一番左)が残されている。西大滝ダムの近くの、国道117号旧々道っぽい道?の端に安置されていた。ひょっとしたら西大滝ダムが千曲川通船の終点だったのかな? 他の碑は

千曲川通船は明治に入ると更に繁栄し、最盛期には千曲川区間・上田~西大滝となったが、鉄道開通のせいで衰退してしまった。

 

常磐大橋から少し上流にある柏尾橋は昔、北国脇往還「大倉崎の渡し」だったようだ。

 

明治12(1879)年に初めて船橋が架けられ、昭和37(1962)年に現在の柏尾橋になるまでの83年間、橋の流出を4回経験していた。数年前の令和元年東日本台風でも柏尾橋の水位15mが越えという過去最大値を観測していた。

船着き場の「上野の城崖」からも近く、荷物を受け取る人々で賑わっていたのだと思う。

 

今の柏尾橋は戸狩野沢温泉駅の近く、長野県道95号とその先に続く長野県道408号(戸狩野沢温泉駅の近くで急に番号が変わる形で繋がっている)という、大正国道10号(国道117号の旧道でもある)と思われる道路と国道117号バイパスを結んでいた。

ちなみに大正国道10号は東京から秋田へ向かうが、群馬から新潟に抜ける三国峠を踏破することが出来なかったらしく、東京~高崎だけ国道17号を使い、高崎~長野~飯山~小千谷と進み、小千谷から国道17号に戻って新潟、秋田へ抜ける道となっている。今の国道17号の三国峠トンネル開通が昭和34(1959)年。明治期には新潟と群馬の県境を越える国道があったが、大正国道では存在せず(もし新潟・群馬の県境を越えることが出来ていれば大正国道10号のルートなんて止めちゃって、9号の東京~前橋を秋田まで延長させていたかも)、変なルートで新潟と秋田まで頑張っていた。

でも船便があるぐらいだから、それなりの往来もあったようだ。

明治時代以来新潟港はとにかく大きな港であり、明治国道は信越本線を辿っている。大正国道指定と前後して敷設された飯山鉄道は、大正12(1923)年に西大滝駅を開業した。さようなら千曲川通船。

 

平丸峠はちょっと分からなかったが、関田峠なら知っている。有名な道だし、何故か夜中に通ったことがある。夜間は二度と通らないと思う。

平丸峠はマイナーらしく、あまり情報がない。

 

 

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何かあるように見えるが、草ボーボー。

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藪だよ、進む気にもならん。北側はどうしようもない感じがする…。

南側は…。

 

何故か整備されていた。こちらには説明板など「何か」を示す物は一切ない。

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非常に歩きやすく、何か植えてあるが。変な地形だけど、コレというものはない。

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大体がこんな感じだった。なんかあるのかなー? って感じで見終えた。

道路の向こう側は…。

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さっきの場所に比べたら分け入る気力が萎える。

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もういいかな…。


★☆☆☆☆

このまま朽ちていくのだろうと思った

 


<上野の館>
築城年 不明
築城主 不明

 

 

 





 

真々部氏館

毎年、1~2回は出かける安曇野市

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真々部氏館、この地図では分かりにくい。

グーグルマップさん↑とトリミングした上記の地図↓

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つまり、本来はココに真々部館があったみたいなの↓

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何もないわ。道路突き抜けてる。ちょうど「真々部氏館」の場所だけぽっかり空き地?(家も建っているが)になっているようで。空から見ると分かりやすくなっている。
 

真々部館の遺構はこれだけ↓

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往時、館を取り囲んでいた土塁の一部だそうな。

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大手道↑

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こんなお城跡だけど、安曇野市街地でこれまで見てきたお城跡のどれより気合いが入っている。デカい地図や説明板×2が設置され、安曇野市のいつもの標柱もあるよ。「真々部城と城下町」と表現が大きく出た! 一般人の頭の中にある城下町のイメージとは違うかもしれないが、我らの郷土が栄えた昔を誇りに思う、という堂々とした姿である。

 

説明板によれば、

  • 武田氏は上杉勢への備え等のため、信濃国安曇野に千国道(棒道=軍用道路)を整備
  • 安曇の南部に真々部の館を設置し、監視した
  • 千国道は穂高・大町を経て糸魚川に向かう古くからある街道
  • 真々部はこの「千国道」の他、「飛騨道(旧東山道支道・岐阜方面)」「善光寺道(旧東山道支道・長野方面)」「熊倉道(千国街道・松本方面)」「長尾道(旧三郷村方面)」「岩原道(旧堀金村方面)」などの主要道、「長尾の渡し(梓川を渡り松本へ向かう)」がある交通の要衝であり、物資の集積地となっていた
  • お寺も古くから集まり、土地柄か読み書き算盤が出来、周りの村々の情報を把握している人々がいた
  • 武田晴信が天文19(1550)年頃、物資の供給や宿場とするため真々部館と城下町を整備した
  • 真々部館は45間(約82m)四方の広さで、土塁と堀に囲まれていた
  • 二の丸は120間(約218m)四方あって、こちらも土塁と堀があった
  • 主の真々部氏は日岐丸山氏の一族で、仁科氏の配下

 

  • 城下町は、館を中心に道・堰・寺社・宅地・田畑を配置していた

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  • 7寺8小路、真々部下屋敷、真々部諏訪神社八幡宮、化粧屋敷、乾の馬場、辰巳の馬場、的場、駒垣渡(馬の牧場)、牛垣渡(牛の牧場)などがあった
  • 7寺=専念寺・金龍寺・真光寺・円通寺・常松寺・法国寺・真行寺
  • 7寺は色々な宗派であり、真々部内外の情報収集の他、お寺の檀家さんを相互監視される機能もあり、これらは武田氏の支配施策であったらしい
  • 8小路のうち、真々部氏館周りの東小路・西小路・南小路・北小路には真々部一族の他に甲斐からきた家来、真々部氏の領地から呼び寄せた家臣たちを住まわせた
  • 千国道周辺には百姓や甲斐などから移住した商人職人が住んだ
  • この千国道の周りでは市がよく開かれ、安曇野南部で最も賑わった
  • 真々部村の郷蔵(江戸時代の年貢米の保管庫)もこちらにあり、盗難や火災などないように村で厳重に管理されていた
  • 飢饉や不作で米がない時には「お助け米」として郷蔵から米が配布された
  • 現在郷蔵は平成6(1994)年に立て替えられ、お祭りの山車の収納庫になっている

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  • 真々部村の最初の学校は、明治6(1873)年専念寺に開校した真受学校であったが、翌年この広場に真々部学校を新築し移転した

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  • 教室4・座敷2・お勝手があり真々部学校開校時には63人が学んだ
  • 明治37(1904)年に真々部学校が廃校、(明治7(1874)年、真々部村は高家村に統合されており)生徒は本校の高家学校に通学する
  • 旧校舎は集会場などとして使用され、昭和30年に焼失

明治9年時点で、小海渡村・熊倉村・真々部村・中曽根村・飯田村を統合して出来た高家村には尋常小学が3校あった。真々部学校(生徒数113)、飯田学校(生徒数148)、熊倉学校(生徒数188)。真々部学校は一番生徒数が少なかったようだ。旧飯田村も旧熊倉村も、それぞれ川の渡し(飯田の渡し、熊倉の渡し)が村内にあった。真々部も同じく長尾前の渡しがあり、尋常小学が置かれた地区は交通の要衝だったりする。ちなみに3つの渡しとも塩の道(千国街道)の一部だが、一番古い熊倉の渡しが最大の渡し場で最も賑わったようだ。2番目に真々部の渡し、3番目は飯田の渡し。

 

飯田の渡しは松本~安曇野最短ルートであったものの、早々と廃止されてしまったようだ。明治9年には存在しない。現在では正確な位置も特定出来ない程忘れ去られてしまった。名称的に飯田砦の近くだったと思うが、飯田砦周辺には梓川SAがあり工場が建ち並んでいる。

長尾前の渡しは昭和6(1931)年梓橋がかけられ、ルートは今も健在。平成19(2007)年にアルプス大橋が開通されるまで国道指定されており、頻繁に渋滞していたようだ。

熊倉の渡しは昭和30年代まで使われていたようだが、現在廃止され橋も架けられていない。渡しの位置には記念碑だけが残された。熊倉だけ現在残念な感じになってしまったな…。最も賑わっていた故に開発出来なかったのかな。

 

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さて、土塁跡に登ってみる。

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安曇野市特製の標柱がここにある。

標柱には、

  • 戦国期天正年間末期、武田氏は大町・穂高と並ぶ軍事拠点として、真々部館と城下町を作った
  • 館の4周には小路がめぐり、小路内部が2の郭にあたる
  • 主の真々部氏は日岐丸山氏の一族で、仁科氏の配下である
  • ここは七寺八小路と呼ばれる都市が形成された
  • 市も開かれ、安曇野南部の中心地であった

と簡単に紹介されていた。

 

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現在土塁跡には祠が2つあった。向かって左の立派な方が「殿村三峯様」、右側が「秋葉様」。

 

殿村三峯様

埼玉県秩父三峯神社に毎年参詣し、御眷属拝借の牌とご守護3枚の御札を授かり、御札を門戸に張り付けて盗難除け等を祈願している

 

秋葉様

静岡の秋葉神社の火防の神を祀る。殿村秋葉講が造ったものだが、いつ頃建てられたか分からない。

 

三峯神社ヤマトタケル碓氷峠に向かう途中、イザナギイザナミを偲んで創建したという伝説がある古く大きな神社。3枚の御札とは、御祈祷神璽・火防之神璽・盗賊除神璽の札。また三峯神社の眷属のオオカミを一年間お借りすることが出来るようだ。御札は一年後返却しなければならず、拝借料は4000円。

秋葉神社も大きな神社で、こちらは火災予防の神様。

「殿村」とは真々部氏館があった(現在、金龍寺のある)場所を指す。

 

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すぐ近くには金龍寺。金龍寺のある場所が二の郭跡。

古いお寺で、鎌倉時代創建と言われるが、地図にもあるように元は別の場所にあった。

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金龍寺の東側、今は田んぼが広がるだろうか?

明治11(1878)年に再興されたそうだが、境内にはそれ以前に造られた石仏など大量に残されている。

このお寺さんには真々部氏のお墓も残されているそうで、特に中興の祖とされる真々部尾張守長雄さんとその妻子のお墓があるそうだ。真々部長雄さんの奥様は武田信玄のご息女と伝わる。

 

このお寺さんも中々な感じで、

開基・後鳥羽上皇(真々部氏の先祖である仁科氏が後鳥羽上皇を守る西面の武士だったという縁)

開山・晋明大済国師相国寺鹿苑寺の開山と同一=夢窓疎石のこと!?)

御本尊・後鳥羽上皇の御持仏で、行基作の聖観音(国宝級)

とされているらしい。キラキラな有名人だらけだよ!

 

宗家の仁科氏や武田氏が滅び、真々部氏も衰退。天正10(1582)年真珠院と称する。明治5年、官命により廃寺。

 

安曇野市平成23年製作の資料を見つけたが、その内容だと、

創建年不明

開山・一庵和尚(寺伝では下諏訪町の慈雲寺の天桂和尚、このお坊さんは武田信玄と懇意)

開基・真々部尾張

となっている。真々部の7寺のうち、最も寺領の石高が高い(3石)。

ちなみに、真々部さんのお墓には「丸に揚羽」の紋があるそうだ。平家じゃん。宗家の仁科氏は平姓なので、その流れなのかな? 安曇野市の資料だと、仁科氏の一族か丸山氏の一族か不明としながらも、丸山氏と真々部氏が繋がる系図を載せていた。丸山氏も仁科氏の傍流だし、どっちでもいいのか。

 

ほぼ唯一の遺構、土塁を見て回る。

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この土塁、それなりの巨木とかなりの巨木の切り株が残されていた。

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広場になっている二の郭跡。

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二の郭と大手道。

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★☆☆☆☆

多分、金龍寺さんの方が見応えあると思う

 

<真々部氏館>

築城年 天文年間(1532~1555)

築城主 真々部氏? 武田氏?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回は130年前の米蔵を改装したというレストランへ。イタリアンだよ。

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カフェもやっている。

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今後、毎回ここがいいとか言い出しそうだわ。