お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

長楽寺

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姨捨に行ってきた。ここは月見や景色の良さで有名な場所。棚田とかもある。

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綺麗な景色が眺められる=標高が高い訳だけど、開墾して水田も作られた。山の斜面に階段状に作った水田を棚田といい、現在国の名勝に指定されている。日本で初めて農耕地が文化財として保護された記念すべき景色でもある。文化財保護法に基づき、この景色が永久に保存される。日本国が消えちゃったり天変地異で地形が壊滅的被害を受けない限りは…。その後、重要文化財的景観に選定されている。

 

名勝と重要文化財的景観の違いは、

 

名勝

文化財の種類のひとつで、国または都道府県が芸術上、観賞上価値が高い土地として指定するもの

 

重要文化財的景観

都道府県または市町村が保護措置を行っている景観地のうち、特に重要なものとして申し出があったものを国が選定したもの

 

つまり、名勝>重要文化財的景観となるのね。

 

以前は現在の姨捨SA付近から流れ出す更級川を水源とし、田は多くなかったみたい。江戸時代に入り元禄10(1697)から安永6(1777)年までの大池普請で更級川より更に標高の高い場所に溜め池をいくつも作り、結果姨捨周辺にたくさんの棚田を開発できた。

姨捨を象徴する「田毎の月」とは、もともと長楽寺というお寺さんの持ち田48枚にそれぞれ映し出された月のことを指している。平安時代から月の名所として有名だったが、田毎の月の初出は天正6(1578)年刊行の狂言本。江戸時代の水田開発で棚田が増え、「田毎の月」は周辺に広がる広大な棚田すべてに月が映り込む様を表すようになったらしい。

 

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長楽寺入り口。ここには松尾芭蕉の面影塚という石柱がある。元禄元(1688)年松尾芭蕉が当地を訪れた記念に明和6(1769)年に建てられたもの。読まれた句が彫られている。

この他、境内は広くないのに大量の歌を刻んだ石碑が並ぶ。

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観音堂の下にも。

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ひときわ大きなコレ↑は回翁歌と彫られ、どうやら回文(「私負けましたわ」とかの上から読んでも下から読んでも同じ文)の大家の碑らしい。

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久邇宮お手植えの松もあった。

 

長楽寺は創建年不明の古刹。「千曲之真砂(1753年)」という書物には長楽寺の紹介と姨捨の紹介が載っている。

  • 天台宗で、八幡村神宮寺(武水別神社神宮寺)末寺の放光院
  • 本尊は聖観音(善導大師作)、勢至菩薩(恵心僧都作)
  • 48枚の田の近くにも石仏の聖観音がおられる
  • 月見堂ある
  • たくさんの和歌が飾られているが、スペースが足りず張り付けできない和歌は八幡神宮(武水別神社)などの文庫に収めている
  • 姨石、姪石、甥石、袋石(十袋石とも言われる)ある
  • 古来から田毎の月(田の一枚一枚に映し出された月)が歌に詠まれる
  • 八月十五夜頃には田に稲が覆い繁るので、田が月が映し出せる訳がない。里の諺で「田んぼの稲を刈り取り水を湛え月影を映して見るなり」という、十五夜にわざわざ収穫前の未熟な稲を刈り取り月を拝む拙い意識の者が時々現れ嘲笑される事件が起こる名所でもある。名所というものは自然に月が映り景色の良さを楽しむ場所であり、それを無理に作り出すとか風雅の意味を知らないヤツだと思うよ!

と書かれていた。

このお寺で御朱印をいただいたが、その時のお寺の紋は武田菱だった。武水別神社関連だからかなー?

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月見堂↑

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本堂↑

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梵鐘?が小さい。

 

御本尊のひとつ、聖観音のお堂。茅葺きの小さなお堂だった。

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お堂にお参りしたが、気になるのはお堂の隣の巨石。

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これが姥石らしい。

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元はこちらの石が御神体だったんじゃないかという位の存在感だよ。

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姥石の他、姪石や甥石などの巨石があちこちにあるらしい。更級川周辺で起こった地滑りにより巨石がごろごろしているとか文化庁のサイトに書いてあった。何か謂れがあるのかないのか、微妙な感じ。

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初めて句が刻まれていない、石仏を見つける。消えかかっている。

 

ちなみに姥石の上は展望台にされている。

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貧弱な柵だが、これがないと危険だわ。

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柵がない時代では転落事故が多発してそうだよね。

 

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姥石には祠もあった。1宇は嘉永6(1853)年って書いてあった。黒船来航の年である。その祠には熊野権現の札が納められていた。

 

長楽寺には、謡曲の「三老女」の案内板もあった。

謡曲とは、能の声楽部分のこと。能の演目の中でも老女を描いた曲は能の最奥の秘曲とされ、非常に大切に扱われている、特に「三老女」と呼ばれる関寺小町・檜垣・姨捨の3つは重要な演目であるという。経験年数や才能がない人は演じることを許可されないらしい。故に上演は少ない。

 

関寺小町

関寺の僧たちが和歌の話を聞くため、老女の庵を訪れる。華やかだった若いころの話を聞いて、僧たちはどうやら老女が小野小町だと気づく。

 

檜垣

毎日水を捧げていた老女が僧に会った。老女は若いころ傲慢な白拍子で地獄に落ちた。成仏したいです、と語る内容。

 

姨捨

都の男が姨捨山で老女に出会う。「ここは私が捨てられた姨捨山ですよ」などと話しかけ、月のきれいな夜半に静かに舞う話。

 

姨捨」は、都の男たちと出くわし「姨捨の旧跡はここ」「捨てられた老女は私」とかしゃべって桂の木陰にすーっと消える。夜も更け、月の下で老女が男たちの前で舞い、明け方になると男たちが帰るが老女はそのまま一人残されるという寂しい話、というあらすじが案内板に書かれ、老女が最初に消える桂の木が長楽寺境内にあります。とあった。

そんな桂の木があった…?

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これらしい。千曲市指定天然記念物になっていた。姨捨の演目は世阿弥(1363~1443)が作ったらしい。1400年頃にはそれなりの大きさの木として存在していたと思われる。

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境内の片隅には五輪塔らしきもの、供養塔のような石塔が並んでいた。

 

長楽寺の向かいには千曲市日本遺産センターという、昔の姨捨観光会館を改修した施設がある。

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年内は歌川広重の浮世絵(本物)を展示しているそうで、つい最近レストランオープンでその件を知った私が慌てて見に来たのよ。

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広重の「六十余州名所図会25 更科田毎月 鏡台山」である。各国の名所を描いたもの。信濃国の名所として長楽寺・棚田・鏡台山から月が出ている様子を描いたそうな。なんと写真撮影可だった。

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昔、会社勤めに疲れてしまい「ステンドグラス職人になりたい」とブツブツ言ってた時期があったことを不意に思い出した。いいよね…ステンドグラスは。

 

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今回同行した者が一番喜んでいたのが、国鉄末期に設置された姨捨駅の観光案内板。うおーと呟きながら写真撮っていた。鉄道好きじゃないとか言いながら、こういうのに興味を示すからちょっと引く。

 

 

★★★☆☆

子供は高い所(姥石の上)に腰が引けていた

 

<長楽寺>

創建年 不明

開基 不明

 

 

 

 

 

 

そしてレストランには一番乗りした。

メニューの内容が一切分からなかった訳だが、イタリアンのパスタコースのみだった。

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前菜↑

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↑ドルチェ、選んだのはティラミス

 

パスタは数種類あり、3種類頼んで食べ比べしたが、私は味噌クリームが一番美味しいと思った。開店時間を狙ったのが良かった、やっぱり12時には混雑し始めた(団体客も来たし)。クリスマス気分に浸れて良かった。

佐野山城

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佐野山城はこんな感じの林道↑沿いにある。林道なのに舗装路? どうやら昔の主要な道だったらしい。

どこへ出る道か帰宅後調べた。途中で分岐点が有り、聖山(松本方面へ)と旧大岡村信州新町方面へ)と、抜けられるようだ。便利な生活道路ということかなー?。

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ここがよく見ないと分からない入り口。私は一度通り過ぎたよ!

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砂防ダムがあった。佐野川だ。

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これ古道なのかな? 川が近いだけあってぬかるんでいる。

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ぐちゃぐちゃしているけど歩くのは苦でない感じ。足場がしっかりしている。

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むしろ、砂防ダムを越えるときが一番滑った気がするよ…。

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砂防ダムを越えると青いロープも消えてしまうが、踏み跡が明瞭で迷うこともなさそう。

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橋だー!

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佐野川の上流のはずなのに、水が綺麗じゃない。

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汚いというか、何かの鉱物みたいなもので濁っているように見える。

帰宅後これも調べて見たところ。やはり鉄が採れるとのこと。旧日本軍が採掘したという話が伝わっているようだ。

この佐野川の水自体が強い酸性で生き物が住めない環境。天然の毒水でその種類は硫酸。山では褐鉄鉱の他、硫黄も採れるらしい。鉄も硫黄も戦争で活躍できる大事な資源。しかし平時には有害な毒水でしかなく、このせいで農作物が育たないなどの苦難の歴史があったらしい。

褐鉄鉱って製鉄材料としては非常に質が悪いモノだそうで、これを用いて製鉄をしなかった(砂鉄を使った)という話もあるし。逆に製鉄技術が伝わった初期(時期としては縄文時代?)は褐鉄鉱が採れる長野県内が一番技術進んでた、という話もあるらしい。

渡来人の一族(秦氏)が聖徳太子から恩賞で、佐野山城周辺の土地をもらって移住した過去もある。褒美になるような場所なんだから何かイイコトがあるはず。単純に考えたら資源かな!?

佐野山城、褐鉄鉱や硫黄(これも日本各地でたくさん採れるが、中国では採れないらしい。日宋貿易日明貿易での中国向け重要輸出品のひとつで、つまりお金になる)を守るために作ったお城だったりして…?

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橋を渡ると、すぐに広場が現れた。東屋もある。

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不動滝の水が流れる小さな川がある。こちらは濁っていなかった。

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不動滝のお水は多分飲めるね。佐野山城はこの不動滝の流れる崖の上を登っていく。

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ゴツゴツした岩が多く、昔の文人墨客が好みそうな風景だ。

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一応、名所となっており、案内板が立てられていた。

  • 平安時代歌人西行法師が訪れている(撰集抄)
  • 松尾芭蕉も訪れている(更科紀行)
  • 正岡子規も来た(かけはしの記)
  • 郷土の偉人である佐久間象山も来た
  • ここは修験道の修行場、不動明王も祀られている
  • 「いしのと(8/1のことで、あの世とこの世を隔てる石の扉が開き、先祖がこちらに戻ってくる日。お盆の幕開けであり、当日はおやきを作って食べる)」にはおやき片手に滝行しに来た
  • 高雄山から生まれ、佐野山城の南側を流れる滝の沢から流れる14mの滝。ここからは見えないが、11mの2連滝もある
  • NHKの大河ドラマ風林火山)で重要なシーンで使われた凄い滝です

という説明が書かれていた。

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時期が時期なので、水量が少ないのだろうか? マイナスイオンも少なめ。

轟音を響かせる雄大な滝を想像していたんだけどねーこれじゃ滝行難しいんじゃないかな。

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滝の沢を渡るところ、登り口となる。

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佐野山城まで0.5km・佐野薬師まで1km・竜王城まで3.1km。大手道は佐野薬師からなので、ここは裏口だよ。

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なんやかんやで訪れる現代の文人も多いのか、きちんと整備されていた。とにかく綺麗。

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急激に登ってきた。

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まだまだ登っていくよ…。

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どこまで登るのか先が見えない様子。

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少し平坦になってきた。

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城域にすでに入り込んでいたらしい。見上げれば郭らしき平場がいくつも重なっていた。

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下にもある?

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段郭を縫うように上に登っていくのかなー?

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がっつり杉が植林されていて、いつまで経っても景色が変わらない!

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通行止めの表示が…。「山の神」と「佐野城跡」には行けないとある。ピンクのテープに従って迂回路を行けば通行できるとのこと。正直、内容が頭に入ってこなかった。林道不動滝線まで戻っていくのがいいのか…?

しかし振り返ったすぐ後ろにこういう標識が↓

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佐野山城跡の矢印が通行止めの先と全く違う方向を指している。通行止めの先を示しているのは「山の神祠」だけだったよ。この標識の方が古そう。

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結局古い方の表示に従うことにした。一応道があるので。

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そしてこの山道は「林道不動滝線」なんだろうか? 車で通った舗装路のことではないのかな? ピンクテープが導いている。

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ピンクテープなくても行けそうなくらい道がしっかりしているよ。

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この迂回路、途中で分岐点があった。こんなクソ山奥で迷子になるのはゴメンだったので、スマホのGPSを使っているものの。好奇心に負け城の中心部とは違う方向に進んでみた。

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石碑があった。山の神様。昔から鎮座しているような佇まいだけど、先ほどの看板は二つとも山の神様の祠を別方向へ教えてくれた。ここにもあるって教えてよぅ。山の神様に道中の安全を祈願し、神様に祈りを捧げた。

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また戻る。

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大変親切な道で、びっくりするほどピンクテープがある。

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踏み跡もしっかりしているのにご丁寧にピンクテープ(テープなくなっている箇所もあるが、棒で分かる)まで! なんという優しい世界。佐野山に対する愛情を感じるよ。

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道はひたすら登っていく。急坂だった。

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なんというか…道が整備されているわりには先が見えない。迂回路だからかな?

それでも怪しい場所に出た。

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虎口というヤツか…?

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また段郭みたいなのが増えてきた。迂回路から元の道にいつの間にか戻ったのだろうか。分岐点には気がつかなかったよ。

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よく分からないけど、↑こんな感じの所が点在する。

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何かの入り口的な。

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お城の中枢部に入ってきた。地形が愈々人工的になる。

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堀切だよ。

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何度目かの堀切を過ぎると、唐突に看板が現れた。

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「佐野城址入口 →」

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佐野山城の本郭かしら? 階段がある。

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あの説明板見ただけで分かる。本郭到着。
まずは本郭の周りを見回ってみた。

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眼下の郭(多分1の丸と書かれた場所)。

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本郭内の様子↓
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2の丸かな?

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佐野山城の説明板は以下の通り。

  • 高雄山の東側、佐野山にある
  • 南側の「不動滝の絶壁と佐野川」・東南の「ジリダレ沢」・「車橋の断崖」・「3つの川に挟っている」という自然の要害地
  • 城の大手道(さっき通ってきた道)には大小10以上の段郭がある
  • 頂上には平地が連なる(郭が3つある)、それぞれ堀切で仕切られている
  • ここから剣の刀渡りの険(という名前の痩せた尾根か)を数町登った高地にも外廊の址がある
  • 水は小谷沢から汲んでこれるし、搦手から「サルトヤの詰城」まで行け、麻績と通じている
  • 築城年代は定かではない。応永7(1400)年の大塔合戦で村上氏が新城を築城した記録があるので、その新城がココじゃないかなと思っている
  • 佐野山城主は具体的に分からないけど、とにかく桑原氏
  • 佐野山城の外廊として大田原の古屋に「城山」という場所がある
  • また信田口にも番所があった
  • 小田原には「はざま(伏兵を潜ませた名残の地名)があった
  • 天文22年の葛尾城陥落後は武田のものとなり、内田監物という人がいたらしい
  • この先には桑原左近の館がある

凄くザックリした説明だった。

千曲市桑原)大田原はここから更に登った山の中の集落で、旧桑原村の古地図があったので見たところ、「古屋」という地名があった。ここだろうか? 竜王城の近くだった。

旧桑原村は非常に広いものの中心部が深い山で分断されている。明治7年までは麓の治田神社を中心とした集落(桑原村)と、山の上の大田原集落(大田原村)が合併したため、異常に広くなってしまったらしい。大田原集落の隣(といっても山で隔てられている)には小田原集落(旧小田原村)がある。これら集落は古い街道筋に沿って点在しており、車社会に突入するまでは賑わっていたような地区っぽかった。この街道は信州新町に向かっており、千曲市側の終点は稲荷山のようだ。

 

信田口は長野市信更地区のどこかだと思う…。旧田野口村の地図には「城ノ入山」とか城っていう字がついた地名があり当然城もあり、和田山頂上にも1郭の古城跡が残っているとあったけど「信田口の番所」跡かは不明。

 

桑原将監の館とは古屋の館のことらしい。長野縣町村誌の扱い的には、治田神社>桑原氏城館(古谷の館や小坂城)>竜王城>佐野山城という感じで、佐野山城の重要度が低い。そして佐野山城は「城主も築城年代も不明」と書かれていた。

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周りの様子も分かったので、ちょっと進んで「外廊」という場所に行こうと思う。

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古家の館というのも気になるけど、この図が無茶苦茶なので目指さないです。ざっくりしすぎじゃないの? 大体、「一の丸」「本丸」「2の丸」とあるが、本丸=一の丸のはずだし、漢数字とアラビア数字が混在している。そして現在地はどこなのか…? 本丸にいるのかと思ってたけど、ひょっとしたら一の丸にいるのかも? 分からなくなってきた。

不安を感じさせる看板め。

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少し進むと何かあった。図でいう「2の丸」って場所かな? それとも別の何かか?

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ぴょっこりした小山があった。そして、堀切とかも。

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結構深い感じよ?

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ひょっとしてコッチが2の丸って場所だった? ってぐらいちゃんとした場所だよ。

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さっきの場所を過ぎれば、よくある尾根が続いた。

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やせちゃってる尾根である。景色もあまり良くない。「剣の刃渡り」という名前の場所。剣の刃渡りは痩せ尾根の別名だという。

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ダラダラと続いて楽しくない。

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やっと何か怪しい場所に辿り着きそう。

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門みたいになってるし。

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左側にはしっかりした踏み跡がある。そして右側にもうっすら道がある。

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ここが分かれ道らしい。左へ行けば古谷沢という小さな川に出るはず(そこから先は分からないけど)。右が外廊となるが、まずは左に行ってみたいと思う。

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木が倒れていて楽しそうだしな!

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満足したので、分かれ道まで戻ります。

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そして道を登ります。

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平場があり、どうやらココが行き止まりのようだった。先は何もなく藪。引き返す。

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あと段郭あった↑
そして、道だと思って上がってきたモノがこれだった。

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溝ですよ。
明らかに人の手で掘られたもの。気がつかずにこれを登ってきていたらしい。

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堀底状通路というものらしい。敵にここを歩かせて、左右の土塁から討ち取るってヤツかな? 凄く浅いんだけど、大丈夫かな。

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外廊の一番の遺構は堀底状通路かもしれない。というぐらい、くっきり残っていた(登る時気がつかなかったのなんでなんだろう?)。

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堀底状通路もなんとなく消えていった。だから分からなかったのかなー?

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通路が消えていった代わりに。

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土塁。

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そして郭がいくつか見える。

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土塁や郭もふわっと消えてしまった感じ。

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そして、古谷沢からの道も見えてきた。合流点が近い。

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最初に見たこの道↑も堀底状通路というヤツだったのね。

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ぐんぐん下っていき、再び分岐点に。佐野山城の案内板にはなかったけど、なかなか面白かったよ。また佐野山城本体部分へ向かう。

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痩せ尾根に戻ってきた。そういえば、「古家の館」ってどの辺だろう? こんな山の中に日常生活を送る館を建てるとは思えないので、もうちょっと佐野集落に近いところかなー?

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人家があると思われる方角を見たが、当然家の影も見えないぞ。

ちなみに古家の館(古谷の館)とは

  • 桑原氏の館
  • 桑原左近将監は天文7(1538)年卒し、その後は不明
  • 慶長年間に耕作地となり区域不明

と長野縣町村誌に書いてあった。具体的な場所としては「本村(桑原村)酉の方、十余町」。佐野山城も「本村酉の方十八町余り」とあったので、佐野山城の近くと言えば近くなのかも?

「佐野薬師から佐野山城大手道が伸びる」という話は聞いたことがあるので、多分佐野薬師の近くに古谷の館があったんだろうなと思ってはいる。

ただし、長野縣町村誌には一言も書いていなかった。佐野薬師も古谷の館も独立した項目で書かれているが、「近くにあった」とか関係性には触れておらず、古谷の館の鎮守として長徳4(998)年創建され、現在は桑原宿遷座している天満宮について記載がない。佐野薬師堂と天満宮を管理していた長福寺は応永11(1404)年、佐野薬師堂に依りて創建→元禄(1691)年に現在天満宮がある場所に再興→佐野薬師堂に戻る。と書いてあった。現在長福寺は廃寺。長福寺の御本尊は地蔵菩薩で、今は長野市篠ノ井長谷寺に遷られている。佐野薬師は仁平年間(1151~1153)創建と伝わる。

時系列的には、

  1. 古谷の館(桑原氏館)
  2. 天満宮
  3. 佐野薬師
  4. 長福寺(天満宮と佐野薬師の別当寺)
  5. 古谷の館廃止
  6. 長福寺(+天満宮)移転、佐野薬師のみ残された

という感じらしい。

佐野薬師(薬師池)の辺りはちょっと開けた場所(耕作地・耕作放棄地)がたくさんあるしな。お屋敷らしき跡地は分からないけど。佐野薬師の北側が竜王城、西側が佐野山城となる。

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佐野山城中央部まで戻ってきた。

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佐野山城の(多分)本郭横をそっと通り過ぎる。

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あっという間に下ってきたよ。

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そういえば、山の神祠(通行止め)への道は長野縣町村誌によれば、風光明媚な「車橋」という場所があるらしい。

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図で見れば断崖絶壁をへつる道のように見える。とんでもなく危険箇所と思われるが、西行法師も通ったことがある古道というし、お城の大手道だったものでもある。

土木技術の問題かもしれないが、昔ってぶっ飛んだ道が多くないだろうか。黒部の日電歩道みたいなヤツがそこかしこにあるイメージだよ。

ざっくり測ったら、佐野山城から薬師池まで500~600mくらいかな? 距離は離れていなさそう。

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滝の音が聞こえてきた。

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不動滝に戻った。相変わらず人気が無い。

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滝も堪能したので特に見ません。

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なんの茸かな? って写真撮って検索してみたらエノキタケって出てきたんだけど…普段見かける白色や茶色のエノキにも見えないぞ。本当ですか? グーグル先生を初めて疑った。

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砂防ダムを過ぎて、車道に出た。その時初めて自動車とすれ違った。数時間ぶりに人間見た。

 


★★★☆☆
危険な道も通ってみたかったとも思う

 

 

 


<佐野山城>
築城年 不明
築城主 不明

荏沢川石堰堤

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また読めない。荏沢川(いざわがわ)だって。

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昔の砂防ダムみたいなやつ?

 

数年前に行ったフランス式階段工↓

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これと同じ内容の施設だと思う。

フランス式階段工は大正7(1918)年完成。今回のはもっと古く、明治17(1884)年頃に作られたとあった。

 

荏沢川石堰堤(いざわがわせきえんてい)

  • 明治12(1879)年より佐野川流域における治水・砂防対策として内務省直轄の事業として建設が始まる
  • 現存する4基の石堰堤は建設当時の図面と一致していることが確認され、平成21年登録有形文化財に指定
  • 明治初期の砂防堰堤はコンクリートを使わない空石積み
  • 明治17年完成

 

佐野川の支流が荏沢川である。千曲川信濃川)に流れ込む佐野川の治水対策事業で、国が設置したものである。

フランス式階段工より素朴な印象。やっぱり大正時代のものはオシャレだよね! フランス式階段工は見た目の麗しさから重文に指定されちゃってる。

 

日本の砂防施設で一番古いのが江戸時代に福山藩が領内にたくさん設置していた「砂留」という施設らしい。見た目はほぼダムだけど。

福山藩内でも一番古いダムが堂々川砂留の皆さんである↓

特に海外から技術を輸入したわけでもなく、独自に開発していった手法らしい。この辺りには江戸時代のダムが数多く残されているようだ(中には所在不明となっていたが近年発見されたというダムもあるらしい)。

 

明治6(1873)年、海外から土木工学の専門家6名が日本政府に招聘され、河川改修や砂防ダムの建設の計画が立ち始める。このお雇い外国人たちは大河川の調査を始める。

明治10(1877)年頃から治水事業が国直轄の事業となる。長野県内ではまず明治11年木曽川から事業を始め、次いで荏沢川石堰堤などの佐野川と浅川と岡田川の信濃川水系に着手。但し信濃川千曲川)水系は長野県内広範囲にわたるので、明治14年から19年にかけ、段階的に事業開始している。この第一期砂防工事は明治38年まで続けられた。長い。このあとフランス式階段工などの大規模治水工事もやっているし、昭和時代の戦前戦後もそれぞれ大きな事業やっている。でも大洪水起きる。人間は自然に勝てない。

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一番最初に見えた石堰堤↑が「第7号石堰堤」かと思いきや、第七号はそのひとつ奥のやつだった。

最初の工事で石堰堤は5基作られたとされ、現在は最下流の1基が失われたとされている。
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下流域はこんな感じで、人工的な匂いのする自然が溢れている。下流域は高速道路が交差している。

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よく見れば、川底に石が敷き詰められている。高速道路建設絡みで景色は改変されているが、川の底までは手入れする必要がなかったから、そのままになっているのかな?

 

また、治水工事自体が明治時代から現代まで断続的に行われた関係で、新築・修繕・改修・改造されまくり。最初の工事に関する資料や図面はないらしい(「最初の5基は現存しない」説も見つけた)。もちろん改変の資料もないし、工事の様子も書き残されたものが少ない。実際ココが「どのくらい価値があるものなのか」が最近まで分からず、ほったらかしにされていたという噂もある。

最初5基しか作られていないのに、この石堰堤が「第7号」って名前付けられてしまっているのは、そんな理由なのかしら。

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この砂防ダム群は国の登録有形文化財に指定されている。なので、見学者用の舗装路が川に沿って走っている。

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これ↑だって約150年前のオリジナルではなく大正期のものだとしても、役目を果たし続けていることが凄いと思うんだよ。100年経っている物だからねえ…。

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堂々と建つ「荏沢川第七号石堰堤」の柱と登録有形文化財の石碑。その奥に地味な砂防ダムみたいなのが見える。あれは多分「第六号」だと思うが、登録有形文化財ではない。

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流水の勢いを殺しているので(水量が一番少ない時期だけど)、流れが相当緩やか。

明治時代、この施設を作ると同時に植樹も行っているそうだ。

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だけど鬱蒼としておらず。若い木が目立つよ。植えた木々は消えてしまったのか…。

物静かそうに見えて意外とこの川、しょっちゅう暴れていたのかも。

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でも見学箇所はすべて崩れず残ってる! マメに修復しているのかな?

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第三号石堰堤が見えてきた。

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第三号が一番大きい。目立つ。

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石は近辺から集めてきたそうだが、それでも苦労しそうな量である。

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もう少し紅葉が残っていたら良かったかもしれない。

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見学も「第三号石堰堤」が主なのか、この先の道荒れているようにも見える?

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進めるしね…奥まで行ってやる。

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第三号石堰堤から谷が深くなったような感じ。

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第二号石堰堤を示す柱が見えてきた。

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この素朴を絵に描いたような。これを洗練させるときっと重要文化財になれるはず。

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きゃわわわー! 親水公園みたいな感じだよ。

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最後のひとつはこの先だ。

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何か…階段工じみてきている。

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もともと巨大ダムが好きなんだけど。昔の人が資源も技術も限られた中、治水対策とにかくなんとかしようとしていた熱意を感じるこういうのも味があっていいなあ! と、牛伏川の階段工のせいで思い始めたよ。まあ年を取ったからかもしれないが。

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更に荒れた様相を見せる道。だけど軽トラ幅の轍がある。それなりの頻度でメンテしているようだ。

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眼下の荏沢川も、目の前の道路も、怪しげな寂しげな様相となってきた。

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道路は落ち葉で見えないが、変わらず舗装路だ。歩きやすい。

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なんかあった!

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一号石堰堤だ。

そしてその奥にダムが。

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まさかこの砂防ダムも年季の入ったものかと思ったが、平成10(1998)年完成だった。20年ちょっと前か。古めかしいが、想定していたより新しい(私は昭和40~50年くらいかなー? って思った)。

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銘板ついている石垣部分、新しい雰囲気。

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ここで轍も消えた。道も見えない。終点だ。

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誰かがここでワークマンの新品ジャケット?をおろしたようだ。

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行き止まりなので帰りまーす。

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第1号石堰堤さようなら。

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第2石堰堤さんもさようなら。

皆さんここまでしか来ないのかしら? 明らかにココで景色の荒れ方が変わるよ。

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第3号石堰堤が見えた。

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きっと川の近くからドーンと写真を撮ったら映える景色を写せるのかもしれないが、寒くてそんな気になれない。

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さようなら第3号石堰堤。

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最後の所に到達。

そういえば「登録有形文化財」の銘板をきちんと記録していなかったので、一応。

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文化財に指定されている石堰堤4基はそれぞれ番号を持っており、それぞれ↑上の物と同じようなものが設置されていた。

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私が秋によく戦っているブタクサがまだ花を咲かせていた。

今年はブタクサと喧嘩しすぎて、奴が現れると子供が事前に「ギャアァ! 右前方、ブタクサ発見!」と知らせてくれるようになった(その予告が非常に煩い)。

 

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民家も何もない山の中なので熊さんいます。

 

 

 

★★★☆☆

牛伏寺のフランス式階段工に比べたら見劣りするよなあ…。

 

 

<荏沢川石堰堤>

設置年 明治17(1884)年

 

 

 

 

 

 

 

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カレーを食べた。この日は散々だった。まず朝から栃木県警から間違い電話が来て(栃木県は10年近く足を踏み入れてないわー)…このカレーを食べた10分後にも一悶着が。休日が休日にならない。

波閇科神社

読めないやつ。

ハベシナと読み、意味は「クネクネした坂道」らしい。この神社はハベシナ峠に鎮座していたが、室町時代に現在地へ遷された。お名前が大和言葉っぽいことから分かるように、古い神社であり、延喜式内社である。

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↑神社の参道。何番目の鳥居か分からないが、一の鳥居はコレである↓

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残念なことになっている。数年前の写真だが、多分今でもこんな感じになっているはず。

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字を書いた人は従四位伏原宣足さん(1845~1930)で、お公家さん→子爵となった人らしい。伏原家は正二位少納言まで出世できる家柄のようだが、具体的には

  • 公卿(上級貴族として国政の中枢を担えて昇殿も許される)
  • 半家(上級貴族の中で最下位の格)

という家格らしい。伏原家は清原家の傍流であり代々儒学を研究するおうちだそうだ。江戸時代の家禄が230石とあったので上級貴族としては収入イマイチだなと思った。230石は江戸幕府でいえば旗本(将軍に直に会える家格)だけど末席の家格で、同じ感じなのかなー?

下位の旗本(石高200~500)は蔵奉行・書物奉行畳奉行といった管理者系から祐筆(秘書みたいな役職だそうだ)や勘定奉行吟味物調役(裁判関係の仕事)といった機密に触れる仕事まで色々あるらしい。

 

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入り口にはこんな石碑もあった。字が消えかけており、判別難しい。

「追懐碑」というタイトルで、波閇科神社の神官家に生まれた若林光政という人の顕彰碑らしい。この人は幕末の慶応3(1867)年に37歳で亡くなっているそうだが、建てられたのが明治21(1888)年。近隣の人々に学問を教えていた人で、教え子達が建てたようだ。

 

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鳥居を潜った。

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なかなか趣のある参道。

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こんな綺麗な参道に危険箇所が! ぱっと見危険そうじゃないが、なんと枯れ枝が襲ってくるらしい!

境内入り口には御神木?があって。

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灯籠には茸みたいな石が入っていた。

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境内は思いの外、広かった。

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手水?がかっこいい。

狛犬もいた。

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狛犬は上山田温泉郵便局の寄贈のようだ。温泉街に郵便局あったと思ったけど、その郵便局の前身だろうか。他にも旅館やホテルの名前が彫られていた。多分どこだか分かる名前もあれば、恐らく失われてしまった施設かもという名前もあった(10年以上前に廃業した旅館の名前があったし、現在も営業中のホテルの名前もあった)。皇紀2600年記念に寄贈されたものらしい。当時の代表的な宿泊施設だったんだろうが…。

御祭神は天照大御神で、相殿神として豊受大神伊勢神宮外宮の神様)日本武尊も祀られている。日本武尊がハベシナ坂を通ったときに、天照大御神を祀ったことが始まりだそうだ。

この近辺の峠道といえば、四十八曲峠がある。この峠道は世間でもまぁまぁ知られた道で。

 

四十八曲峠はこんな感じ↑

wikiによれば「急傾斜に葛篭折れの道が続く難所」だそうで。この道も車道とは思えないが、主要地方道「県道55号大町麻績インター戸倉線」だったはず。

 

冠着山←」という看板が主要地方道らしく立派で、看板の先には現在通行不可の四十八曲隧道がある。昭和38(1963)年竣工、平成17(2005)年廃止なので、往時の写真はそこそこ残っていた。

この付近に四十八曲峠旧々道があると思われるが、ちょっと分からず。

千曲市の史跡として「四十八曲峠古道」が指定されている。先達のブログなどを読む限り獣道に近い山道だった。祠がいくつも残っており、江戸時代には使われていた道らしい。

しかし「四十八曲峠古道」の公式説明でも「四十八曲峠が古来ハベシナ坂と呼ばれていた峠道かはハッキリしない」と書かれてしまっている。

ハベシナ坂は現在所在不明となっている。

 

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年季の入った案内図。

これによると、摂社として

  • 宇佐八幡社
  • 住吉社
  • 金比羅
  • 稲荷社

があり、それぞれ立派なお社があるようだ。城泉山観音寺という善光寺別院というお寺さんまで行けるらしい。このお寺は昭和42(1967)年創建で、一帯の観光開発に合わせて建てられた善光寺大本願別院だそうだ。毎年大本願の御上人様が来て法要を行っているらしい(いつも隣の澳津神社や向かいの秘宝館?トンデモ館?が気になってしまっていたが…ちゃんとしたお寺さんだったのね)。

この案内図や観音寺までの道も、昭和42年前後に作られたのかな?

 

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右の山道を登っていくと、最初に見えてくるのが宇佐八幡社。全国にある八幡宮の総本社の宇佐八幡宮から分霊されたのかな?

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宇佐八幡に向かう途中で上にあったのが、住吉社。住吉の神様にはあまり馴染みがない。住吉大神底筒男命中筒男命表筒男命の三柱を総称した神様で、黄泉から帰ってきた伊弉諾尊が川で禊ぎをしたときに川の深いところから底筒男命、中程では中筒男命、川の表面辺りで表筒男命、それぞれ生まれたそうだ。航海の神様らしい。海のない長野県では縁が薄い神様なのかも? でも摂社の中では一番立派なお社をお持ちだった。

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次に蚕神社が見えた。この辺りも養蚕が盛んだったのかも。

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←蚕神社 宇佐八幡社→

ここから道を外れて、摂社をそれぞれお参りしていった。

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左手前の鳥居がある社が天神社。学問の神様。

右奥に見える社が金比羅社。こちらも航海の神様であるが、山岳信仰と結びついた神様なので住吉社よりは馴染みあるよ。

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金比羅

 

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住吉社からは波閇科神社の裏手辺りになんとなく向かうと、小さな祠がたくさんあった。

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小さな祠はあちこちにあった(青い瓦の家は廃屋のようだ)。

 

道はもうないが、更に奥へ進んでみる。

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廃棄された瓦。

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窪み。川が流れた跡のように見えた。

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道に戻った。

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山に登ると観音寺に出られるはずだが、実際はどうなのか謎(荒れ果ててるのかもしれないし)。下っていくと。

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またお社が見えた。
そういえば、お稲荷さんまだお参りしていなかった。

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笠石が落ちている。

お稲荷さんのお社も立派だった。住吉社は比較的新しそうだったが、こちらは古くても大事に手入れされている様子だった。なので笠石も戻してあげて欲しい。

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稲荷社は一番高い、眺めの良い場所に鎮座していた。
山道を下りた。

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宇佐八幡社まで戻った。この宇佐八幡社は山道と崖の間にいらっしゃったが、崖の下には。

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下にも祠が。廃屋の屋敷神なのかなー? 一般の参詣者が立ち入れない(気付かない)ような場所にあるよ。

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波閇科神社を後にし、参道を戻る。

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参道の脇から別の場所に向かう小道があった。方向的には廃屋に続いているように思えた。あの廃屋は波閇科神社の神官家のお屋敷で、屋敷神の祠ではなく神官家のお墓かもしれないなとちょっと思った。

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★★★★☆

昭和のハイカー用に開発されているようだが、神社自体はとても静謐で綺麗で良い雰囲気だった。

 

 

 

<波閇科神社>

創建年 不明

 

 

 

 

 

 

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この日はケーキも食べたよ。美味しかった!

稲荷山城(勝間反砦)

 

誰も一度は見たことがある例のロケットがある場所が稲荷山城だった。

 

はやぶさイカロス君にはまってた頃、臼田宇宙空間観測所には行ったことがあったけど、とんでもない山奥(でも道は異様に綺麗で立派)にぽつんとある静かな場所で。行くまでが大変だった。あんな場所からデータを相模原まで送っているとか、壮大だわと感心してた。

パラボラアンテナの周りには野ウサギのコロコロウンコが辺り一面転がっていたのをしっかり覚えている。ウサギが好きだから。

佐久地方の野辺山にも国立天文台があって、こちらの方が見応えがあった。臼田のほうはとにかく大きいアンテナがどーんしているだけに対し、野辺山は大小アンテナがたくさんあって、引退した古いアンテナも展示されているし。

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臼田宇宙空間観測所はもういいかな…という感じだけど、野辺山国立天文台はもう一回行ってみたいかなー?

 

稲荷山公園。私はこちら側↓から入った。

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フォトジェニックな場所だった。

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大量の鳥居が奉納されている。

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稲荷神社とある。石標の消された文字は「郷社」だと思われる。近くの案内板には、

と書かれていたので。お稲荷さんは元は農業の神様だったけど、今は農業と商業の神様とされている。御神徳として挙げられたものも「五穀豊穣」の他「養蚕豊熟」「商売繁盛」「殖産興業」「除災招福」「万民豊楽」と色々だ。

 

御由緒は

  • 社伝では、正暦年間(990~995)に山城国より勧請
  • 戦国時代は「勝間城鎮守」として、武田信玄から緋色の玉垣を奉納された
  • 勝間城の廃城後もお稲荷さんとして親しまる
  • 千曲の真砂(宝暦3(1753)年)という書物には、「稲荷山に稲荷大明神あり、石段二百ばかり川に臨みて良き風景なり」と描かれる
  • 明治6年、郷社

と書かれていた。

そして神社庁の稲荷神社の項目には

  • 天徳4(960)年、村上天皇皇子が佐久郡春日村に下り、一条院の御代正暦3(992)年には当地に移られた
  • 山城国紀伊郡より稲荷山に勧請し、祀られた
  • 武田信玄が社に緋の垣を改築して、永禄9年川中島凱旋の日に大神にお参りした

と詳しくあった。

 

山城国紀伊郡といえば、全国のお稲荷さん総社である伏見稲荷大社がある。

天徳4年は村上天皇の代で、正暦年間は一条天皇一条天皇の時代は紫式部清少納言などが活動していた時期となる。天慶5(942)年に伏見稲荷大社正一位を授けられてからは京からの参詣者が多かったそうで、相当賑わったらしい。人気が高かったから勧請したのかなー?

村上天皇の皇子は第十皇子までいたけど、該当するような皇子はいなかった。村上天皇の縁者を名乗る人物が移り住んで稲荷社を創建したとか?

 

「千曲の真砂」の稲荷山城の項目には、

  • 桜井対馬守の居城とされる築城年代不明の古城が臼田村日影山の観音崫の山頂にある
  • また、稲荷山にも城が有り、これは出丸とも言われている
  • しかし古老曰く、稲荷山城は出丸ではなく武田信玄信越二州に出陣した際に度々陣場とした場所で、堀柵石垣などがある堅固な要害だという
  • 近年まで石垣と堀が残っていたそうだ
  • その稲荷山の城跡は勝間反砦だろう

桜井対馬守は滋野宗平(滋野氏)の末裔らしい。桜井対馬守の子孫は武蔵国荏原郡(品川区・目黒区・大田区辺り)住みで、「我々は海野氏後裔の桜井対馬守の三男の長三郎の子孫というが、系図や古文書もなく真実かどうか分からない。また、家には先祖の桜井対馬守が16才の頃に着用していたという甲冑と槍一筋があったが、槍は所在不明となり甲冑だけは残っている」という情報だけ見つかった。

 

臼田村日影山の古城というのは、医王寺城のことだと思われる。医王寺には日影観音堂というお堂もあるし、武田信玄が佐久地方に出陣した際に陣を置いたとされる「桜井山」は医王寺城のことだという説が近年有力になっているらしいから。

 

勝間反砦(岩崎砦)の項目には

  • (武徳)編年集成によれば天正10年8月に北条方との戦闘があり、193人討ち取る
  • その中には増山豊前・内田加賀の首もあった
  • 海野市介は北条氏直の監使・芳賀四郎右衛門を討ち取った
  • その後、津金監物、その弟の津金修理、小池筑前・米倉主計・折井市左衛門らが会合を開いて勝間反砦を交代で守備し佐久郡一揆の城を守り抜く旨の注進をした
  • (武徳)編年集成では神君(徳川家康)が浜松を出発し、北条家との和睦など模索した
  • 信州佐久郡一揆の残党は上野まで米を秘密裏に運び籠城する味方に届けることに成功
  • そして神君出陣し、柴田七九郎康忠は監使となり甲斐信濃両国を治めた
  • 勝間反砦は鳥居・大久保・平岩が巡検来て、敵の城砦を攻めた
  • 同年11月には松平家忠が勝間反砦を改修している
  • 台命(貴人の命令)により、天正13年真田父子の居城である上田城を攻めた時、鳥居と平岩が勝間反砦に入り、後に甲州へ引き上げていったという
  • 私(著者)は、岩崎砦を佐久郡と書いたが、もしかしたら甲州のものかもしれない。というのも、天正10年12月に辻弥兵衛が賜った神君の朱印状が残っているからだ。内容に「甲州岩崎のうち長延寺分40貫文」という文言があり、甲斐国の話と思われるから
  • また、川東三分村の上の山を岩崎といい、山嶺に観音堂が有り眺めが非常によい場所もあり、ここかもしれない…ここも勝間と向かい合わせの砦であり、兵が篭もれる(=岩崎山陣場

と書かれていた。

多分、近辺にお城がたくさんありすぎて。千曲の真砂が編纂された江戸中期には各城の来歴が分からなくなっているようだった。

岩崎山陣場というのは龍岡城の南側にあるこの山↓にあるらしい。

 

この山頂には佐久市有形文化財の大日宝塔がある。江戸時代以前には宝塔がある場所に大日堂という大日如来を祀るお堂が有り、麓には遍照寺という馬頭観音を御本尊とした古刹があるそうだ。

 

この「勝間反砦」項には人の名前もいくつか出てくる。

北条方として、増山豊前・内田加賀力・芳賀四郎右衛門。

佐久郡一揆方として、海野市介・津金監物・津金修理・小池筑前・米倉主計・折井市左衛門。

北条方の人々、最初の二人は分からないが、監使として挙げられた芳賀四郎右衛門という人はそれなりの身分の人だと思われる。北条氏直の家臣で垪和という人がおり、読み方も同じハガだったので、誤記かもしれない。垪和氏は後北条氏初代が関東へ下向した時に従った最古参の家臣とも考えられているという、北条家の重臣。この垪和一族の縁者じゃないかなー?

 

佐久郡一揆方は、津金監物=小尾祐光(兄)と津金修理=津金胤久(弟)と小池筑前の「津金衆」、折井市左衛門=折井次昌と米倉主計=米倉忠継の「武川衆」が旧武田家臣で武田家滅亡後は徳川家に身を寄せていた人々。津金衆も武川衆も武田の領国の国境警備に当たった武士団で、武田氏滅亡後はいち早く徳川に忠誠を誓っていた。

海野市介は会合に出席したのではなく、監使を討った人としてあげられていたが、地元の土豪かなんかかな?

 

引用元の武徳編年集成には、内容が少し違うらしい。

  • 佐久郡岩崎にて戦闘があり、北条方153人討ち取る
  • 津金衆と武川衆が集まり群議を行う
  • 敵地から15里の勝間反砦を交代で守備し、佐久郡一揆の城砦を守り抜くべきだと報告
  • 津金衆と武川衆は伊賀の忍者と共闘して、甲斐国江草の小屋(獅子吼城)を落とすことにした
  • 作戦通り、伊賀忍者団は夜襲で城を落とす、津金衆と武川衆は城の周りに伏兵を配置し応援に駆けつけた北条軍478人を討った
  • 徳川家康はその奮闘ぶりを称えた

勝間反砦を拠点としつつ、15里(約59km)先の甲斐のお城を奪い徳川と北条の戦いで戦局が変わったそうだ。

 

その後、勝間反砦は徳川家の武将の柴田康忠が入った。この人は甲州奉行、その後は諏訪郡代として主に旧武田領の統治を手がけたみたい。依田信蕃に協力しながら佐久地方の平定にも尽力した人だそうだ。柴田康忠は一時期富士見城の城主だったようだ。

柴田康忠の他にも鳥居(元忠)・大久保(忠世)・平岩(親吉)といった家康の側近達が来たりしていたという。

  1. 鳥居元忠 側近中の側近で、天正壬午の乱以後は甲斐国都留郡を治めた
  2. 大久保忠世 めちゃくちゃ強い、天正壬午の乱後は信州惣奉行として小諸城に在城、依田信蕃を監視
  3. 平岩親𠮷 人質時代からの家康の小姓、天正壬午の乱後は甲斐郡代甲府城を家康の命で築城)

第一次上田合戦での徳川軍はこの3人がメインで戦っているという。徳川軍はボロ負けした。甲斐にいた鳥居さんと平岩さんは勝間反砦にも帰り道に立ち寄っていると書かれていた。

 

松平家忠が城を直しにきた記述もあった。松平家忠は徳川家臣団の中でも土木工事を請け負うことが多かった人で、各地の城の普請や修理を担当して回っていたようだ。

 

「岩崎」が甲斐国内の地名ではないか? という記述に関しては。

甲州岩崎のうち長延寺分40貫文」の長延寺とは相模国にあったお寺である。北条軍に焼かれてしまったお寺さんを武田信玄甲府に再建させたことに始まっている。武田家滅亡の際には、武田と親密な関係にあったこのお寺(住職が武田信玄の孫)を織田信長が焼き討ちしている。住職を務めていた武田信玄の孫は信濃国へ逃亡、甲斐が徳川領になったときに地元へ戻った。長延寺が再興されたものの、旧武田家臣の大久保長安の事件に巻き込まれたため、最終的には廃寺。多分、徳川領になったときの長延寺再興に辻弥兵衛という人が関わっているのかもしれない。

山梨県出身で某有名企業創業者の辻さんのwikiによれば、辻家は甲府に500年続く旧家であり、武田信玄の家来・山形昌景の子孫を称しているとのこと。辻弥兵衛さんってこの辻家の人じゃないかな? 長延寺は廃寺となったが、慶長18年に光澤寺として再興され現存する。光澤寺にも辻藤右衛門さんという方が寄進をしている。

 

ちなみに「岩崎甲州」というワインがある。旧勝沼町岩崎地区で育ったぶどうから造られたワインだそうだ。その岩崎地区は昔、武田信光の七男・信隆を祖とする岩崎氏が支配しており、有名な「御旗」(日本最古の日章旗らしい)と「楯無」(大鎧)を所有していたようだ。このふたつは甲斐源氏棟梁が受け継ぐ品々で、そんな家宝を持っているぐらいだから相当家格が高い一族だったらしい(この一族から甲斐守護を出したことがあるそうだ)。守護(武田氏)と守護代跡部氏)との戦いで岩崎氏はほぼ滅亡状態になってしまう。

そんな岩崎氏の後裔と称していたのが岩崎弥太郎だって。

岩崎氏の館のすぐ近くには後に勝沼氏館(武田信玄の叔父の館)が出来たので、岩崎地区は戦略上重要な場所だったのかも? 

 

鳥居が続く長い階段の他に登れる所があった。

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なんか石碑が色々。

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なんだろうねぇ? 展望台的な場所もある。

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ハイキングコースのような? カラーコーンが置いてある場所もあったけど、特に崩れているとか危ない箇所でもなさそうな感じ。

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鳥居が見えてきた。

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麓の参道入り口からずっと鳥居が続いているらしい。奉納されたものだろうが、とにかく数が多い。

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鳥居が終わると普通のハイキングコースに戻った。

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水が湧いていたような跡地。
鳥居をくぐって登る人が多いらしく、急に他の参詣者が現れだした。良い天気だけど暑い…。

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一応お城っぽい何かがないか探しているが、特に見当たらず。

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トイレだ!

 

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トイレを過ぎると朱色の建物が見えてきた。朱色だから…多分お稲荷さんのお社に違いない。お稲荷さんにお参りするのは後回しにして、他の場所を見に行ってみた。

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何か広い場所。

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とりあえず走り回るには問題ない様だが、暑すぎて誰もおらず。肥前郭って名前の場所だろうか。

一緒に歩いていた子供も限界を感じて文句言い始め、急かされる。

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階段を登った先、また広い場所だよ。こちらは扇岡と呼ばれる場所かもしれない。

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色々石碑は置いてあるものの、それぞれが何を顕彰(記念)しているものかは謎。というか、ブーブーされたのでじっくり眺める時間がなかった。

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配水場。本郭だった場所だそうだ。立ち入り禁止だけど頑張れば侵入出来そう?

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配水場の先が例のロケット型タワーである。タワー周辺は公園になっているそうで、滑り台とかあるとかなんとか。タワーと公園側にも郭があるらしいが、やはり残っているものは少ないようだ。こちら側には丸馬出しや櫓台があったみたい。

航空写真で見る限りは消滅かなー?

正面の建物(勝間公会場)付近が櫓台だった場所のようだ。

 

↑左:櫓台(勝間公会場) 真ん中:堀跡 右:丸馬出し跡(墓地)

この付近だけ、微妙に昔の面影が残っているらしい。

 

↑こっちが大手らしい。

 

さて、子供の収拾がつかなくなっており、稲荷神社に向かいます。

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ここにも石碑が有り、それは読むことが出来たよ。参道の鳥居の件で、

  • 稲荷山は古社・稲荷神社を中心とした景勝地
  • 信仰、史跡、文学の丘でもある
  • 稲荷神社神域の尊厳維持と万民への加護を祈念し、また観光名所作りを目指して、平成10年に朱鳥居130基を建て、参道石段を改修し、奉納した

信仰(稲荷神社)、史跡(稲荷山城)は分かるけど、文学って? もう見なかったけど小諸城址にある島崎藤村の詩碑「千曲川旅情のうた」の対になるものがここにあるそうだ。私、小諸城址には何度か行ったけど、そんな碑見たことないかもしれないわ。

また、島崎藤村作「力餅」という童話の中で「臼田に稲荷山公園というところがあって、公園前の橋のたもとあたりから望んだ千曲川の眺めは実にいい(第7章 浅間のふもと)」と書いているそうで。つまり稲荷神社の麓辺りからみた千曲川がイイ。と書いていた→ここに詩碑を建てよう。という流れのようだ。

 

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稲荷神社には「和楽」という額が飾られていた。
この額は明治28(1895)年に臼田小学校長などを務めた人物が揮毫し献額されたそうな。文字通り「和やかに楽しむ」という意味で、なんか殺伐していた時期に奉納されたのかな? 明治28年は日清戦争終結した年だった。
この神社にはたくさんの狐の置物があって賑やかだった。


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登ってきた道や参道の他にもまだルートがあった。階段下りるの大変そうだったから、こっちにしてみた。

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稲荷神社側は急斜面ばかりで見晴らしがすごくいいや。物見台でも置いていたかな?

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この道には供養塔のように見える石塔や塚が多くあった。一番古い参道がこの道なのかもしれない。

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庭園? 造りかけなのか放置されてしまったのか…島崎藤村(1872~1943)が生きていた時代には稲荷山公園が存在していたので、当時の「稲荷山公園」とはココのことだったのかな、と思った。

例のロケットタワー(正式名称はコスモタワーという)の設置は昭和63(1988)年なので、タワー周辺も昭和末期に整備されたんだろうし。千曲川にかかる橋も稲荷山神社の鳥居のすぐ近くだしな。

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御岳信仰の碑もある。古くからあったような道なのかな。

 

最終的にはここに出た。鳥居はすごかったが、歩きやすいのは断然こっち。

 

 

★★★★☆

見たい物がないけど子供が遊ぶには最適

 

<稲荷山城>

築城年 不明

築城主 不明

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近は一人でご飯食べられる機会がぐんと増えて嬉しい。

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山羊のチーズも使われているカルボナーラだよ! 

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エスプレッソと、美味しそうだったからデザートにティラミスを頼んだんだけど、一瞬「その組み合わせはマヌケだって思われないかな!?」と内なる自分に囁かれた。コーヒー好きには堪らなく美味しかったけどね!

 

中之条陣屋

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坂木陣屋の焼失後、安永7(1778)年にこちらに陣屋を誘致した。
跡地には何もない。

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中心地はここ↑なのかなー? 中之条陣屋の説明板があったよ。

  • 中之条陣屋は江戸幕府の直轄地の支配所である
  • 宝暦4(1754)年、坂木陣屋は中野へ移動し、出張陣屋となる
  • 同年九月には出張陣屋も廃止
  • 明和8(1771)年、中之条に御用場(仮陣屋)が置かれる、支配地は32ヶ村
  • 仮陣屋は整備され、安永8(1779)に本陣屋となる
  • 増改築がなされて天保11(1840)年には敷地面積約155坪(512.4㎡)に
  • 敷地内には、御門・御本陣・御白州・役宅・仮牢その他の施設があった
  • 支配地は佐久、小県、埴科、筑摩、水内、高井の六郡にあって、約5万石
  • 慶応4(1868)年に明治政府により廃止された

この説明板には所有者の名前も挙げられていた。宅地化されて、遺構はないらしい。

 

とりあえずザックリ歩いてみるか、と路地を進む。

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事前情報で「井戸が残っている」とあったが。井戸は2つほど見つかる…。

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↑この薮の中にも井戸らしきものがあったよ。でもネットで見た「井戸」はこれらじゃなかった。

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↑古そうな土蔵。この辺りは物凄く古そうな建物・戦後から昭和末期に建てた感じの建物・新築が入り乱れており、カオスだった。

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ひとしきり歩いてみて、本当に何もないことが分かると。

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国道を挟んで向こうのコレ↑を見に行った。

 

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文化の館というらしい。

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 施設内の図を見ると、公民館みたいな機能の建物? と思った。

ここはシルバー人材センターの基地にもなっているようで、駐車場には事業用軽トラが数台置かれていた。

 

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仰々しい門からは出入り出来ず、裏手から入る感じ。建物数は余り多くない。土蔵と母屋と離れの3つだけ。庭も広くはなかった。

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野点場とあったが、新型コロナのせいか茶会開いていなさそう。使われている形跡がない。文化の館の建物内にも茶室と水屋があるようで、屋内でもお茶ができるみたい。庭園があるので茶道メインで使おうという施設なのか。

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庭園は綺麗に維持されている。

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この庭に面した部屋が茶室のようだ。

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なんか誰もいなかったわ。

 

離れ?

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使われてないようだ。

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立派な門の裏側↑

 

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土蔵もひっそり。

 

★☆☆☆☆

中之条陣屋周辺も人いなかった。住宅密集地なので散策するには勇気が必要かもしれない(驚くほど狭いので車来たら避けるの大変そう)。

 

 

<中之条陣屋>

築城年 明和8(1771)年

築城主 江戸幕府

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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家族がこれ↑の話を振ってきて、このゲームやってないけど(数ヶ月前にサービス終了のお知らせを見た作品だわ)似たようなモノをやっているのでちょっと興味があって見に行った。

至る所に謎の美少女がおり、「誰だよこいつ」「私の知っている○○はこんなヤツじゃない」とか思っていたわ。

 

元々この施設は刀工で人間国宝の宮入行平さんを顕彰する記念館、刀の作り方や作品展などやっている展示館のようだ。宮入行平さんの甥が燭台切光忠の写しをつくった宮入法廣さんだそうで。

あんまり刀と関係ないけど、某テレビドラマのパブリックドメインとして使われていた「津田助広」の元ネタが刀工名だと知り満足した。

刀を見てたら、本当に「一本欲しいな…」と真剣に思った。写しだけどちゃんと斬れる真剣なんだよねえ。見終わったあとにソハヤノツルキと三日月宗近のクリアファイルを買った。

今度は燭台切光忠の写しを出張展示してくれると嬉しいな…(子供がみっちゃん推し)。

 

そういえば、山浦環さんこと源清麿も長野県出身だった。

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坂城町出身じゃないけどさ。

源清麿(と長曽祢虎徹)の作品展があると私が喜ぶよ。

新海三社神社

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新海三社神社に来た。

神社の説明板には、

  • 興波岐命(佐久地方開拓の祖神)、健御名方命(興波岐命の父神)、事代主命(興波岐命の伯父神)と誉田別命八幡神)の四神を祀る
  • 佐久地方の総社
  • 古来より人々の崇敬を集めており、武家からも源氏・足利氏・田口氏・武田氏・徳川氏・大給氏より寄進を受けている
  • 源頼朝は源氏の祖神である誉田別命も祀るよう命じ、甲斐源氏である武田氏も戦勝祈願文を奉じている
  • 三重塔は嘉祥2(849)年建立、東本殿は室町時代に再建、それぞれ国の重要文化財

とあった。

図を見ると、左側の2つの社(西本社と中本社)と右側の1つの社(東本社)が分かれているように思えた。重文の建造物は東本社とその裏手にある三重塔。

西本社と中本社の間には御魂代石という磐座的な石があるようだ。拝殿も西本社と中本社側にあるし、元々はこの二つの社がメインだったのか? と思ったら。 

祀られている神様はそれぞれ、

だったので、主祭神と思われる興波岐命がいらっしゃる東本社が主殿のようだ…これはちょっと罠だわ。

ちなみに、御魂代石というのは私の想像と違い、石造物で彫り物がしてるらしい。しかも室町時代を示す年月日が入っている。

 

興波岐命は諏訪の健御名方命の子で、佐久地方を開拓した神様だそうだ。田口を本拠地とした集団のリーダーで、古墳時代から祀られているとあった。図にも「西御陵」「中御陵」「東御陵」って場所があった。身分の高い人の墓みたいじゃない? この他にも古墳が残っているようだ。

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この辺りを区画整備したときに移動してきたんじゃないかな? と思われる道祖神たち。

 

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拝殿↑

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本来の参道↑

なかなか雰囲気よい。

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まだ七五三の季節じゃないと思うのに、幟がたくさんあるよ。

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古い祠が有り、このすぐ近くに注連縄を張った大きな石があった。御休石という名前で、神様がお出かけになる神事?があるときに使われる石らしい。なんか詳細見たけどよく分からなかったよ。見た感じが磐座で、御魂代石(石塔)よりもソレっぽい。まあ分類上間違いなく磐座なんだろうけどさ…。

 

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怪しい跡地もあった。

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神宮寺跡だそうな。

お寺は廃止ではなく移転だそうで、現存している。

 

神宮寺跡、建物の基礎とか石段なんかそのまま自然に還りつつあり、私の好きな雰囲気となっている。

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神宮寺跡のすぐ横には東本社だった。

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  • 重文、室町時代
  • 祭神は興波岐命
  • 御名方命の子で、佐久の開拓神
  • 色々な事に霊験あらたか

興波岐命を新開神(にいさくのかみ)とも呼ばれ、その名からこの神社も「佐久神社」とか呼ぶらしいし、もしかしたら地名の「さく」もこの神様の名前から来ているのかしら?

 

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東本社からちょっと離れた所に中本社・西本社。あの二つは仲良く隣り合っている。

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もうひとつの重文は東本社の裏、ひっそりといた。真正面からは見えないよ。

東本社も三重塔もほぼ同じ時代に造られているらしい。三重塔は上宮寺のものだったが明治元年廃仏毀釈の際に「お寺さんのじゃなくて、ウチの宝物庫」と申請したために破壊されず残されたそうだ。

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↑神楽殿と拝殿

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↑中本社・西本社

東本社と趣が違う。朱色だし。江戸時代に建てられたのかしら?

源頼朝誉田別命を合祀した際に社殿を再興したらしいので、それ以前から存在していたらしい。その後も改築と再建を繰り返して、元禄12(1699)年から2年かけて現在の社殿を造ったようだ。

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ちなみに拝殿は中本社に向かって造られており、中本社の祭神は健御名方命だった。

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この配置だと本当の主祭神って健御名方命じゃないの…? と不安になってしまうよ。なんとかしてほしい(大昔は健御名方命主祭神だったが、東本社が国重文になったので主祭神を変えました説が捨てられない)。

元は三重塔の前にはお堂があって、それが明治に入り廃される→東本社になる建物が神楽殿前から移転する→古い社だったので重要文化財に、という流れらしいです。だから東本社はボッチらしい。あの場所、冷静に考えればお寺の境内にあたるはずだしなー。

ただ「興波岐命は本来の御祭神ではないのか」というわけではなく。神楽殿の前にあり移転したお社には大昔から此処にいた地主神(健御名方命の子とされる)が祀られていたらしい。その神様が最終的に「興波岐命という神号である」となったらしい(時代が下っても神様の名前が出てこなかったとか)。

とにかく変わった神社だなと思った。

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↑拝殿

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↑御神木

 

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★★★★★

古墳もたくさんあるし、杉林が綺麗だった

 

 

 

<新海三社神社>

創建年 不明

御祭神 興波岐命・健御名方命事代主命誉田別命